我、プロとして

Vol.17 松井龍哉 氏【後編】
デザイナー/美術家(1991年芸術学部デザイン学科卒)

卒業生
2021年07月02日

デザインには別世界を見せる力がある

デザイナー/美術家として幅広いフィールドで活躍する松井龍哉氏。多くの人を魅了する彼の作品には、自身の人生で学んださまざまな想いが詰め込まれている。後編では大学時代から現在までの彼の人生にスポットを当てていこう。

パリの熱気

鶴ヶ丘高を卒業した松井氏は、念願の芸術学部デザイン学科に入学した。
大きな期待を胸に江古田校舎の門をくぐったが、大学生活は松井氏の想像したものとは全く違ったようだ。

「鶴高の美術科で3年間、日藝に入るために特訓を受けていたので、大学に入ったとたんに次の目標がやっぱり必要になったんですよね。他学科や他の美大に行った友人達とも交友は広げたが、創作していくための関心は横の繋がりだけでは足りない。そして自分の本当の関心がどこにあるかも入学後に大体わかってきた。」

そして海外の学校で勝負をしたいと考えるようになった。ただ、すぐに留学をしようというのではない。デザイン学科の課題をこなしながら、自分が行くべき場所を探すことにした。

アルバイトでお金を貯め、何度か海外へ足を運んだ。その中でも日藝の海外研修で行ったヨーロッパ研修は忘れることができない旅行になった。

大学時代について語る松井氏

大学時代について語る松井氏

「僕にとって初めての海外旅行だったのですが、初日に大勢の学生が食中毒にかかって、1週間ロンドンで足止めになったんです。幸い僕は元気だったから、1人でリバプールに行き、ストロベリーフィールズ、ペニーレインを巡りました。ジョンレノンの実家にも行って、興奮してつい勝手に家へ入ろうとしたら、中にいる人に慣れた感じで簡単に追い払われちゃいました。ホテルに帰って、食中毒の治らない友人達にリバプールの様子など説明したら、皆面白がって聞いてました(笑)」

研修が再開し、その後はベルリン、スイスのアルプス、ローマ、フィレンツェ、などを巡ったが、パリは特別だったという。フランス革命から200年という記念すべき年で、7月14日のパリ祭(革命記念日)に向け世界中の才能が結集したかの如くパリの街が目に見える形で大変革を起こしていた。

「当時のミッテラン大統領がパリでサミットを開き都市の大改革をして世界に示しました。ルーヴル美術館にガラスのピラミッドができ、オペラ座や凱旋門を新たな解釈で設計した建築が生まれるなど、パリはデザインと建築で生まれ変わった。初めてみたエッフェル塔は建設からちょうど100年経っていたが光り輝いていた。その熱気を目の当たりにして、将来はここに来なきゃアーティストになれないと本気で思いました」

その後、高校時代から憧れていたニューヨークを訪れるなど、大学時代から何度か海外旅行へ出かけたが、パリの印象は強烈で、その思いは日増しに強くなった。

「就職はせず、卒業後はパリへ行こうと企んでいましたが、美術系の大学院や専門コースの外国人はプロフェッショナルのキャリアがないとちょっと難しいのでは?と大使館でアドバイスを受けるなどどうするべきか思案して、一旦、国内にあるデザインの事務所で海外プロジェクトに携われるとこがないかなど模索していました。そして丹下健三・都市・建築設計研究所の門を叩くことになりました。」

メタとフィジカルの繋がり

1991年、松井氏の姿は日本を代表する世界的な建築家、丹下健三氏の設計事務所にあった。

入所からほどなく、イタリアの高名な出版社エレクタ社から丹下氏の作品集を作ることになり、その担当者に任命されたのだ。

「1946~96年の丹下先生設計活動50年を総括した400ページの大作品集です。それについては特に上司もいなくルールもなくイタリア出版社と直でやるという自分の性格的に合ってると思い「やります!」と始まりました。まずはこちらで作るべき本を計画してみました。年表を作り時間的な経緯を調査していきました。そこには日本の近代建築の歴史そのものがありました。定期的にまとめたものを丹下先生に見ていただき、細かくご指導いただくなど作業を繰り返しているうちに徐々に近代建築や丹下建築さらには日本の近代のダイナミズムの本質が見えてきて面白くなりのめり込みましたよ。世界史 日本史 個人史と繋げながら文脈を構成していくことで、作品集を作りながら近代建築史の中の丹下作品について実際に丹下先生にご指導いただく機会というのは今思うと本当に貴重な経験でした。そして次第に先生の講演資料や原稿作成も任されるようになり。もちろん新人がやるべき仕事もしていたので、大げさではなく、当時は世界で一番働いてる人間だと思っていました。あそこで10年分ぐらいの経験を積むことができたと思います」

プレゼンテーションのノウハウはもちろん、物事の本質をどう捉えどう扱うか、そして時間と空間に関する壮大なスケール感を学び、今でも基本になっている視座をいくつも得た。なにより直接丹下健三氏の薫陶を受けたことが、松井氏の人生の得難い宝になった。

「axle御茶ノ水」内にあるラウンジ”Mies”に掛かる松井氏の抽象絵画作品「 oeuf 45° 」

「axle御茶ノ水」内にあるラウンジ”Mies”に掛かる松井氏の抽象絵画作品「 oeuf 45° 」と 「Mies」は芸術学部が取り入れたドイツのデザイン教育機関「バウハウス」の校長で建築家のミース・ファン・デル・ローエから命名 ミース・ファン・デル・ローエの名言 「神は細部に宿る」「Less is More」をモットーにしている空間

渡仏したのは、5年後。パリの大学院ではインタラクションデザインを研究対象とした。

「丹下先生にこれからの若い人はコンピューターやネットワークを勉強しなさいという教えを受けていました。先生はそれらをメタと呼び、目には見えなくとも社会を構成してる概念であるメタ環境と建築や都市という目に見えるフィジカルの世界は繋がっているので、双方を理解することがこれからの建築家やデザイナーには求められると仰っていました。とても感銘を受けた考え方です。しかし建築もインタラクションデザインもそれを将来の仕事にするつもりはなく、自分が”21世紀にデザインしたい対象とは”既にあるものではない”と思っていたので、まずは情報ネットワーク社会などについて研究しておこうと考えていたのです」

研究に没頭しコンピューター言語を学び、パリにある多くの日本の大手企業のホームページを作成するアルバイト、ウェブ制作会社を起業したフランス人の友人と共に仕事をするなど、充実した時間を過ごした。高校、大学、そして丹下氏の元で学び基本のデザインができていたので、パリでも複数のデザイン仕事を依頼されなんとか生活はできていた。

「それからインターンに行くのですが、これは必修でした。フランス企業を片っ端から受けましたが、全く受からず、次第にアメリカの企業を受けるようになり、IBMに採用してもらいました」

当時のIBMはソフトウェア企業のロータス社を買収し、フランスに支社を作っている最中だった。そのメンバーの一員となり、そのままフランスロータス社にデザイナーとして勤務することになる。

給料など待遇は悪くなかったが、松井氏はその仕事にやりがいを見つけることができなかった。

「ITの世界というのは非常にフラットで思ったほど僕には向いていなかった。世界を変えていくのだろうが、合理的なシステムを見つければ理論的に解決できる仕事です。丹下先生のプロジェクトでは200メートル級の建築の現場など、生きた心地のしない壮絶さが動いていたり、やはりリアルは断然おもしろかった。そう考えていたときに、たまたまロボットについて調べることになりました。ロボットは人間のリアルな環境の中で動くけど、行動規範はネットワークで作られる。もしかしたら丹下先生の言う、メタとフィジカルの繋がりというのは、まだ社会に存在していないロボットにその可能性があるのでは?と21世紀に入る少し前に探していたテーマがようやく見つかったように感じました」

いろいろと調べを進め、ロボット先進国が日本であることを知ると、すぐに帰国。
国立研究開発法人 科学技術振興事業団ERATO北野共生システムプロジェクトの研究員となり、日本で最高峰の人工知能研究者である北野宏明氏の下で、ロボットデザインの研究をスタートさせた。

松井氏が30歳のときだった。

自分の力を信じる

科学技術振興事業団ではヒューマノイドロボット「PINO」などのデザインに携り、念願だったMoMAでの展示を勝ち取った。

「長年の夢が叶い、感動という言葉の本当の意味を体感しました。しかしロボットPINOはアクリルケースの中に入れられ剥製のように展示されました。ロボットはこれから生まれて、動いているところが一番美しいのです。ケースを取るようにお願いしましたが、聞き入れられず、僕が目標にしていた美術館というのは物の墓場なんだと感じました。そこでまた目標が変わりましたね」

ニューヨークから戻ってすぐの2001年にフラワー・ロボティクス社を設立した。
機能的であるのと同時に花の美しさ、生物的な環境共生型人工物、人間に与える精神的な豊かさを自身が作るロボットで表現したいと考えたのが社名の由来だ。

フラワー・ロボティクスでは、工業デザインをベースに、さまざまなロボットをデザイン。これまでにヒューマノイドロボット「Posy」「Palette」や自律移動型家庭用ロボット「Patin」などのオリジナルロボットやKDDI社のロボット「Polaris」などをデザインした。

その功績が認められ、Good Design賞など、数々の賞を受賞。ロボットデザイナーとしてその名を世界へ轟かせる。

ロボットの他には「航空会社スターフライヤー社」などのCI計画からトータルデザインまで幅広いデザインを手がけ、クライアントワークを展開。

2020年からは現代美術作品の制作に着手。前編で紹介した「œuf ho-oh(鳳凰の卵)」は作品の一つだ。

「扉を開けたら全くの別世界を見せてくれるという力がデザインにはあります。ただ僕のデザインはその空間において、異質にならないものを心掛けてもいます。時代に寄り添い、はっきりとしたメッセージを発しているけども、しっかりその場に馴染むのが、ロボットにもアート作品にも重要なことだと考えているんです」

松井氏は自身が作る現代美術作品を『動かないロボット』と呼んでいる。つまりは何を作るにおいても同じ想いを込めて作品を世に送り出しているということだ。

今の自分があるのは学生時代から変わらずに己の力を信じた結果だと松井氏は語る。
そして松井氏は学生に向かいこれから”大変革を迎える世界”で生きていくために伝えたい言葉があると。
「Faith in oneself is the best and safest course.(自分を信じることが、最善で安全な道である。)
ルネッサンスの巨匠、ミケランジェロのこの言葉は自分の生き方そのものでとても腑に落ちます」

コロナウイルスというパンデミックを経て、世界は大きく変わっていくだろう。
その中で彼がどのような作品をデザインし、どのようなメッセージを発していくのか、大いに注目していきたい。

<プロフィール>
松井龍哉(まつい・たつや)

1969年1月2日 東京都生まれ。1991年芸術学部デザイン学科卒。
本学卒業後に丹下健三・都市・建築設計研究所を経て渡仏。帰国後に科学技術振興事業団ERATO北野共生システム研究員。2001年にフラワー・ロボティクス社を設立。自社ロボットの研究開発からトータルデザインまで幅広く手掛けている。
ニューヨーク近代美術館、ベネチアビエンナーレ、ルーヴル美術館内パリ装飾美術館  ヴィトラデザインミュージアム等でオリジナルロボットの展示を実施。また近年は美術家として現代美術作品を制作/発表し収集されている。2006年 個展:松井龍哉展(水戸芸術館) 2011年 個展:花鳥間(POLA MUSEUM ANNEX)