我、プロとして

Vol.22 生稲洋平 氏【前編】
「くだもの楽園」代表(2001年文理学部社会学科卒)

卒業生
2021年11月25日

「何がやりたいか」から「何ができるか」に発想を転換し、見つけた料理と就農の道

「東京生まれの川崎育ち。都会っ子気取りで、田舎なんて大嫌い。大学時代は『仕事をするなら都会でねーと』って思ってました(笑)」

そう話す生稲洋平氏が今いるのは、東京から300km離れた山形県河北町。四方を月山や朝日岳などの美しい山々に囲まれ、東に悠々たる最上川、南に清流・寒河江川が流れる自然豊かな町だ。ここで彼は農業を営み、数種類の果物を生産するほか、ブランド野菜「かほくイタリア野菜」の栽培・普及にも奔走。地域の農業活性の主力としても活躍する。彼はどのようにして、この場所にたどり着いたのか。その軌跡を追った。

 

バレーボール漬けの4年間

生稲氏が経営する農園「くだもの楽園」内ゲストハウスにてインタビュー

生稲氏が経営する農園「くだもの楽園」内ゲストハウスにてインタビュー

中学校の文集に「将来の夢はバレーボール選手」と書くほどバレーボールが大好きだった生稲氏。中学校は全国大会常連の強豪、川崎市立橘中学校バレーボール部に所属し、バレーボールに打ちこんだ。やりがいはあったが、練習は厳しく「高校はもう少し楽なところへ。それもせっかくなら東京の高校へ」と、東京農業大学第一高等学校バレーボール部へ進む。そこは「弱くもないが強いというほどでもなく」物足りなさを感じ、「また本気でやってみたい」と思うようになる。

とはいえ、大学に行ってもバレーを続けたい部員は彼1人。顧問がプッシュしてくれるわけでもなく、大学バレーボール部とのパイプは全くなかった。そんな生稲氏に手を差し伸べてくれたのが、練習試合等でお世話になった日本大学付属校のバレー部顧問。「日本大学のセレクションを受けてみたら」と薦めてくれた。受けてみると、見事合格。ポジションはセッターだった。

が、喜んだのは束の間だった。

「僕、何も調べないで日大に行ったんです。調べてたら行かなかった(笑)。そのくらい当時のバレー部は厳しかったです」

生稲氏を待ち受けていたのは、中学時代を上回るハードな部活生活だった。

「もう、毎日ぼろぼろ(笑)。でもおかげで、社会に出てつらい目に遭っても、あの4年間を乗り越えたんだから大丈夫、怖いものはないって思える。ちょっとやそっとじゃへこたれない忍耐力が付いたのは、大学バレー部時代のおかげです」

バレーボール部を引退。「何をやったらいいか分からない…」

こうしてバレーボール漬けの日々を送るも、プロになることは諦めて大学4年で引退。

「中学からバレーボール街道を進んできて、バレーボールをするためだけに日大へ行き、他に目指していたものは何もなかった。バレーボールを辞めたら、何をしたらいいのか全然分かんなくなっちゃって」

4年生になって就職活動の時期になっても、バレーボールしかしてこなかった人間には、就職活動のやり方も分からない。受けたい企業も思い浮かばなかった。

「周りには100社受けたとかいう人もいて、100社も興味ある会社があるのか!と。全然付いていけなかったですね。何やったらいいのか、ほんっとに分からなかった」

とりあえず体育会系学生を対象とした就職セミナーに足を運んでみると、そこで出会った通信系の企業からオフィス機材の営業として内定をもらうことができた。ところが後になって、その企業の社風が体育会系であることが判明。「あの世界はもう部活動で十分」と、内定を白紙にしてもらう。

「今思えば、そのくらいで諦めるなんて若かったなと。入社していたら、そこで何かできたかもしれないのに」

そこで生稲氏はふと気付く。バレー部ではアルバイト禁止だったため、これまで仕事をしたことが一度もなかったのだ。まずは仕事というものを経験してから、職業を選ぼうと考えた。生稲氏は1年間アルバイトをさせてほしいと親に頼みこみ、コンビニエンスストアの夜勤のアルバイトを始めた。

料理の世界の扉を開く

大学時代について語る生稲氏

大学時代について語る生稲氏

生稲氏はアルバイトをしながら、時間さえあれば就職情報誌を広げ、やりたいことをひたすら探し続けた。

「でも結局、分かんなくて。思考を切り替えて『何がやりたいか』ではなく『何ならできるか』と考えてみたんです。そのとき思い浮かんだのが料理。そういえば料理するのは好きだなって」

それならまずは料理の世界を見てみようと、今度は洋食屋で働き始める。冷凍食品など出来合いのものを使う店だった。2年ほど働くと、もっと本格的に料理を学べる店に行きたいと思うようになる。このときタイミング良く、料理人になっていた高校の同級生のつてで、都心にあるイタリア料理店で働けることになった。ここから、料理人としてのキャリアが始まる。

<プロフィール>
生稲洋平(いくいね・ようへい)

1979年生まれ。神奈川県出身。2001年文理学部社会学科卒。
本学卒業後、イタリア料理のシェフとして都内のレストランに勤務。2006年より山形に移住し、妻の実家の農園に就農。現在は「くだもの楽園」を経営し、果物やイタリア野菜、米、果物加工品などを生産販売するほか、「企業組合かほくイタリア野菜研究会」の副理事長を務める。