我、プロとして

Vol.22 生稲洋平 氏【中編】
「くだもの楽園」代表(2001年文理学部社会学科卒)

卒業生
2021年12月02日

「都会よりも“こっち”の方がぜいたくじゃないか」山形で見つけた“本当の豊かさ”

中学から大学までバレーボール街道を進んできた生稲氏。ハードな大学時代を経て、引退。やりたいことを必死に探す中、料理が好きなことを思い出し、料理人としての道を歩み始めた。

「自分は食材のことを何も知らない」料理人として壁にぶつかる

山形県の内陸部にある河北町

山形県の内陸部にある河北町。「ここは四季がはっきりしていて、春夏秋冬の自然の景色は何度見ても飽きない」と生稲氏

入った店は、青山や六本木など、都心に数店舗を経営するイタリア料理店。生稲氏は、きらびやかな街のきらびやかな店で料理人としてのキャリアをスタートさせた。

系列の店も回り、さまざまな現場を経験しながら修業を積み、調理の技術が付いてきた頃、生稲氏は食材に興味を持ち始める。食材をもっと生かすには、どうすればいいだろう? いろいろやってみるが、分からない。

「そのとき気付いたんです。僕はそもそも、目の前にある野菜や果物がどこから来たのか、どんなふうに育てられたのか、何も知らないということに。知らないまま発注し、使うことに違和感を覚え始めました」

収穫間近のリンゴ

収穫間近のリンゴ

その頃、生稲氏は28歳で結婚。妻の両親にあいさつをするため、山形県河北町にある妻の実家を訪ねた。

河北町は、寒暖差の大きい気候条件を生かし、果樹・野菜の栽培が盛んな地域。サクランボやラ・フランスは全国有数の生産量を誇る。妻の実家も農業を営んでおり、生稲氏は畑を見せてもらった。それまで畑を見たことがほとんどなかった生稲氏は、木に実る果物や畑で育つ野菜たちを間近に見、新鮮な感動を覚えた。

どんな高級店も出せない“ぜいたくなすき焼き”

その晩、妻の両親が振る舞ってくれたすき焼きが、生稲氏の心を大きく動かすことになる。肉は精肉店で買ったものだが、最上級の山形牛。卵は実家で飼っている烏骨鶏の生みたて、野菜は裏の畑で採れた春菊やネギと、食材はどれもこれも、この土地で育まれたものばかり。東京の高級店でも滅多に食べることができない、ぜいたくなすき焼きだった。

東京のレストランでは、生稲氏はそれこそ毎日のようにフォアグラやキャビアといった高級食材を扱っていたが、食材はどれも遠くから運ばれてくるものだった。それがここでは、とびきりおいしい新鮮な食材が、身近にこんなにも豊富にある。

「それまで僕はずっと、東京が一番だと思ってたんです。高級品でも何でもあるしって。でもそのとき、本当にぜいたくなのは“こっち”じゃないかと思いました。金銭的、物質的な豊かさではなく、命の根源的な豊かさというのか。都会では感じたことのない、本当の豊かさをこの場所に感じたんです」

以来、生稲氏は山形をたびたび訪ねるようになる。行くたびに食材への興味が膨らみ、すぐそこの畑で採れたものが食卓に上る田舎の暮らし、食材の宝庫のような山形にも惹かれていった。

「山形に通ううちに、自分の場所は、実は東京よりも“こっち”なんじゃないか。そう思うようになりました」

都会で料理人を続けていく中で引っかかっていたものが取れ、心を固めるまでに時間はかからなかった。生稲氏は行動に出る。

料理人から農家に転身。東京から山形へ

料理人時代について語る生稲氏

料理人時代について語る生稲氏

「農業を継がせてください、とご両親に言いました。ほとんど直観とノリで決めたことです。それまで高校も大学も直観とノリで決めてきて、後悔したことはなかったから、迷いはありませんでした」

仰天したのは妻だ。実家に後継者はいなかったが、両親から継いでほしいと言われたことは一度もない。しかも夫は都会育ちの田舎嫌い。これからも夫婦ともに東京で仕事を続けるものと思っていたのだ。状況を把握しきれない妻に、生稲氏は「東京に残りたければ残ってもいい。自分は先に山形へ行く」と告げ、移住の準備を始めた。

料理人が嫌いになったわけではない。イタリア料理が大好きなのも変わらない。料理の世界で得た人脈、経験は必ず次に生かすつもりだった。

「いずれ、自分が生産したものがレストランのメニューに載ったら、すげー面白いな。それで、たくさんの人においしいって喜んでもらえたら最高だな。そう思ったのを、今もよく覚えています」

生稲氏は約6年間にわたる料理人のキャリアにピリオドを打ち、家族で山形へ移住。2006年、28歳の時だった。

<プロフィール>
生稲洋平(いくいね・ようへい)

1979年生まれ。神奈川県出身。2001年文理学部社会学科卒。
本学卒業後、イタリア料理のシェフとして都内のレストランに勤務。2006年より山形に移住し、妻の実家の農園に就農。現在は「くだもの楽園」を経営し、果物やイタリア野菜、米、果物加工品などを生産販売するほか、「企業組合かほくイタリア野菜研究会」の副理事長を務める。