Vol.21 海野洋光 氏【中編】
海野建設株式会社 代表取締役(1986年工学部建築学科卒)
宮崎市にあるスクエアパネル工法で建てた事務所前にて
杉製品を開発・販売している海野建設。代表取締役・海野洋光氏のアイデアは全国に波及し、木材の利用価値には大きな可能性があることを証明してみせた。そんな海野氏は社長になるまでにどのような人生を歩んだのだろうか? 学生時代を中心に振り返っていただいた。
宮崎県日向市に生まれた海野洋光氏。両親が共働きをしていたため、3歳で幼稚園に通うことになる。驚くべきことに、当時歩いて1人で通っていた。時代がそうさせたのか、海野氏だからなせる業なのか、それは本人にも分からない。
小学校時代に作った戦車について語る海野氏
小学校では特に目立つこともない少年だったが、一度だけ大きな注目を浴びることがあった。
夏休みの宿題で木材や段ボールなどを駆使して戦車を作るのだが、それが人の乗れる特大サイズだというのだから驚きだ。学校には建設会社で使用している2tトラックで運搬し、特別に体育館で展示をしてもらった。
「始めたら楽しくなってしまって、夢中で作っていたので、学校へ運ぶ方法などを考えずに大きくなりすぎてしまったのです。建設会社の息子でよかったですよ(笑)」
中学の頃から将来は建築の仕事をしたいと考えるようになり、工業高校を第一志望にした。もちろん大学進学を見据えていたが、当時工業高校から大学へ行く者は皆無で、担任からは普通科の高校に進むよう強く勧められた。それでも自分の意思を通し、工業高校へ進学した。
高校入学初日「大学へ行きたい人は?」と先生から問われ、手を挙げたのは海野氏だけだった。しかし2年後、大学進学を希望したのは20人に増えていた。これは海野氏が周囲に与える影響力を物語るエピソードの一つと言えるだろう。
そして1982年、本学工学部へ進むことになる。
入学してすぐに日本大学新聞社に勧誘され、試験を受けて見事合格を果たす。
それまでジャーナリズムに興味を持ったことはなかったが、中学・高校と柔道部に所属していたことで、大学では「アカデミックなことに挑戦する」と決めていた。そういう意味で日本大学新聞社はうってつけだった。
「日本大学新聞社で、それまでに出会ったことがない人たちに触れ、毎日が新鮮でした。法学部の新聞学科の学生が主でしたが、彼らの考え方や意見は僕が思いつかないことばかりでした」
日大新聞社時代の海野さん(右から2人目)
日本大学新聞社での刺激的な日々を過ごし、ジャーナリストを志すようになった頃、大韓航空機撃墜事件が起こった。
1983年9月1日。アメリカから韓国へ向かう大韓航空機がソビエト連邦の領空を侵犯したとして、ソ連戦闘機に撃墜された。乗客269人全員が死亡。その中には日本人も含まれていた。
大韓航空が東京・八重洲にあるホテルに遺族を集めるという情報をキャッチした日本大学新聞社は2人を派遣。その1人に海野氏が選ばれた。
「僕はカメラ担当で、先輩が話を聞いていました。息子さんを亡くした父親に話を聞いたのですが、その息子さんは僕と同じ歳で、しかも撃墜された日が誕生日だったそうです。途中からいたたまれなくなり、泣きながらシャッターを切っていました」
後日、取材について反省会を行い、カメラアングルの悪さについて指摘を受けた。シャッターを押すのが精一杯で、父親の後頭部が映し出されたいくつもの写真が、そこには広げられていたのだ。そのときにジャーナリストを仕事にすることはできないと悟ったという。
「この仕事はどんなときでも冷静に対応する必要があると痛感したのです。でも被害者の父親の頭しか撮影できなかった僕にはそんなことはできない。そのときに世の中で困っている人を建築で助けたいと強く感じました。極論かもしれませんが、僕にとっての人生の分岐点となる出来事でした」
日本大学新聞社には結局4年間在籍した。向いていないと分かっていても、新聞社の雰囲気と友人たちから離れることができない、かけがえのない存在だったのだ。
ザンビア工科大学時代の現場見学
工学部では4年時に谷川正己教授の研究室に入る。谷川教授はアメリカの建築家であるフランク・ロイド・ライト研究の第一人者だった。
「僕はよく神保町で建築史の古本をあさっていたので、谷川先生の下で近代建築について学びたいと考えたのです。日大新聞でも谷川先生を取り上げることがあり、僕が記事を書きました。そのせいか、ゼミの面接で『お前だけには来てほしくなかった』と言われましたね(笑)。谷川ゼミでの学びは、僕のその後の人生に大きく影響を与えました」
海野氏が企画・編集した教科書
卒業後は青年海外協力隊としてザンビア工科大学建設学部の専任講師を務めた。過去に日本大学新聞社の先輩が書いた青年海外協力隊の記事を読んだことが、志望するきっかけとなった。
ザンビアでは建築製図の講義、途上国向けのローコスト住宅の開発、アフリカの伝統的建築調査などを行った。現地の「マッシュルームハウス」と呼ばれる、かやぶき屋根の建築を学べたことはその後の仕事に大きく役立つことになる。また、依頼されて教科書も作成するなど、ザンビアで充実した2年間を過ごした。
任期を終え、帰国した海野氏は大阪の工務店で6年間修行する。
そして故郷の日向市へ戻ったのは1994年、阪神・淡路大震災の前年のことだ。
<プロフィール>
海野洋光(うみの・ひろみつ)
1963年4月21日生まれ。1986年工学部建築学科卒。宮崎県出身。
本学卒業後、青年海外協力隊としてザンビア工科大学建設学部専任講師。帰国後、6年間の工務店勤務、海野建設の専務取締役を経て代表取締役に就任。木材製品の開発に努め、弥良来杉、木製鳥居、スクエアパネル工法などで注目を集める。2014年軽トラ屋台でグッドデザイン賞と中小企業庁長官賞を受賞。建築・土木一級施工管理技士。