Vol.20 板坂直樹 氏【中編】
株式会社CAVIC 代表取締役社長(1990年文理学部卒)
地域の社会見学にも利用されるため、体育館のバスケットゴール等はあえて残している
引田中学校、香川県立三本松高校と香川で過ごし、本学水泳部のある東京で新たな生活がスタートする。高校時代は水泳で四国では負けなしの板坂氏。大学水泳界で日本一厳しい環境に、自ら選び身を置くことで得られたものがあった。ここでは板坂氏を作り上げた人生のターニングポイントをクローズアップする。人の温かさ、人の想い、鮮明に覚えている人生一番の挫折とは―。
旧引田中学校、現在は廃校を利用した「つばさキャビアセンター」
中学校では珍しく50mプールを有している引田の街は、伝統的に水泳が盛んだった。練習する環境は整備されていた。
「親父も水泳をやっていて、高校時代まで続けていたようです」
瀬戸内海を望む港町にあって、泳ぎが達者な人が多かったという。
三本松高校水泳部の卒業生が引田スイミングをつくり、父に「水泳やってみるか」と言われたが、意外にも「嫌や」と最初は断ったが、少し経つと気持ちが変わり、スイミングクラブに入った。
かくして、板坂氏の“ひとかきひとけり”が始まった。
小・中・高・大学1年までは400m、1500m自由形、大学2年から50、100mに取り組んだ。
高校時代は四国チャンピオン。七つの大学から誘いがあったが、高3の夏に転機を迎える。
本学水泳部OBで三本松高校の先輩でもある浜口喜博氏(1952年ヘルシンキオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト)の目に留まり、「こいつはオリンピックにいける」という言葉を愚直に信じた。
当時の水泳部・石井宏監督(1960年ローマオリンピック競泳男子800m自由形リレー銀メダリスト)の耳にも情報が入る。
監督と電話で話す機会があり「君は推薦じゃないからね。勉強で入ってね」と言われて、初めて声を掛けてもらったが推薦ではないと分かった。それでもめげずに、一般受験で合格して日大へ進学。
水泳部の同級生24人。そのうちの一人に飛込の金戸恵太氏(高飛込でソウル、バルセロナ、アトランタオリンピックに出場)もいた。励みになった。
「(日大は)当時から水泳で日本一の大学でした。だから日大の中でも一番、二番にもなれないのは分かっていて、厳しい環境の中に自分を置いてみたいという思いもありました。Bチームになると分かっていながら、より上を目指す環境に行ってみたかった」
こうして板坂氏は、名門・日大水泳部に入部した。
そこで“人生で一番”の出来事が起きた。
大学での種目は1500m自由形。当初の予想通りBチームだった。
日本記録を持っている選手、日本高校記録を持っている選手たちと競い、4番目。
しかし、入学して最初の試合となった中央大との対抗戦・日中戦のタイムが良く、怪我人が出たこともありインカレ出場枠の3人に入った。
「俺は4年間Bチームだった。お前にはBチームからAチームに昇格した、Bチームの想いを一身に背負って頑張ってほしい」
当時、部屋長だった先輩・渡辺英樹さんに背中を押された。
「その言葉を聞いて必然、頑張らなければならないと思った。」
人の温かさや優しさ、想いに触れた瞬間だった。
インタビューは校長室を利用した社長室で行った
体育会の水泳部は縦社会。6人部屋の1年生たちには、当然、炊事、洗濯、電話番などの仕事がある。しかし、練習時間を確保するために、4年生の先輩自ら「(板坂は)仕事はあんまりしなくていい、自分の洗濯物は自分でやる、2年生に手伝わせる、だからお前は頑張ってくれ」と言ってくれた。
「マネージャーや部屋長、先輩のご助力によりインカレに挑むことができたけど、そこでいい記録を出せなかった」
思っていたより、いや狙っていたより、タイムは出なかった。高校時代のタイムすら出せなかった。結果はときに非情である。
「いくら想いが強くても、うまくいかないこともある」
そのときは、自らの不甲斐なさに強くショックを受けたが、いま振り返るとあの経験から得られたもの、受け取ったものの大きさが理解できる。
水泳は個人競技だが、記録を出すまでに自分に協力してくれる人、助けてくれる人がとても多い競技。先日まで行われていた“東京オリンピック2020”を観ていて、改めて実感したという。
「当時の自分にとっては、Bチームの星として頑張らなければならないという気持ちが強い中で、いい記録が出なかったら、そりゃへこむし、トラウマになる」
競技が終わった直後から、何回泣いたか分からないほど泣いた。自分を買ってくれ、送り出してくれた先輩・仲間たち、部屋長にも申し訳なくて、観客席には上がれなかった。
コーチ、先輩が「よく頑張ったな」と声を掛けてくれた。
ようやく観客席に上がれて1学年先輩の小谷実可子さん(アーティティックスイミング、ソウルオリンピック銅メダリスト)も「ここ空いてるから座り」と隣へ座らせてくれた。「よくがんばったよね」と言われる。
「頑張ってへんのに」
さらに申し訳なさがこみ上げる。その度、涙が止まらなかった。
人生で一番の挫折。
「こんなに期待を背負いながら、Bチームの星として、結果を残せないこんな競技なんて」
短距離の50m、100mに転向した。
その後、『スイミングマガジン』(ベースボール・マガジン社)の短距離20傑に載った。
器用だからできたと板坂氏は言うが、決して立ち直ったわけではなかったと回顧する。
それでもスポーツをやっていてよかったと思う。
「頑張ったら頑張っただけの成果が出ます。手を抜いたら抜いたなりの結果しか出ない。仕事も同じです」
結果が悪いと、どこかで手を抜いたと自分を顧みる。成果が出れば努力した結果だと思う。だから頑張ることは大事、と板坂氏は言う。
挫折、転向を経験し、日本一の水泳部での4年間は終わった。
そこからどのようにして現在の道を歩むに至ったのか。
【後編】では大学卒業後、36歳で会社を継いだ、仕事人としての板坂氏を追う。
<プロフィール>
板坂直樹(いたさか・なおき)
1968年生。香川県引田町(現:東かがわ市)生まれ。1990年文理学部卒。
本学卒業後、大阪の大建工業株式会社で管理者=番頭の仕事を学び、36歳で父が興した内装業の大協建工株式会社の代表取締役社長に就任。2012年から廃校になった母校・引田中学校の再利用としてチョウザメの養殖を始め、キャビアづくりを手掛ける。
「瀬戸内キャビア」の商品はフランスのレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ」のテノワール賞を受賞。銀座にキャビア・バー「17℃(ディセットゥ・ドゥグレ)」を構える。
座右の絵は「洞窟と頼朝」(作・前田青邨)。