日本大学の歴史

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日本大学第一学園初代理事長 加納 金助 Kinsuke Kano

1883年生〜1953年没

加納 金助

現在日本大学は、特別付属・準付属を含めると、幼稚園・認定こども園と初等・中等教育機関を合わせて30の付属校を有しています。その嚆矢となったのが、日本大学中学校(現日本大学第一高等学校・中学校)です。

明治末年、日本大学は、不況により停滞している中等教育の普及や日本大学高等師範部の教育実習の場として、付属中学校の設立を計画しました。推進したのは理事の石渡敏一で、大学部法律科に在学しながら千葉県立千葉中学校(現千葉県立千葉中学校・千葉高等学校)で教師を務める加納金助に、設立準備の事務全般を担当させました。

大正2年(1913)2月14日、私立日本大学中学校の設置が認可され、加納は引き続き幹事として運営に当たりました。

当初専用の校舎はなく、神田区(現千代田区)三崎町の大学構内の一部を借用していました。創立10周年を迎えた大正12年、本所区(現墨田区)横網町の土地を取得し、新校舎の建築に取り掛かりました。しかし、9月1日の関東大震災により焼失しました。

震災時、三崎町にいた加納は、成績原簿などの学校にとって重要な書類を、余震の続く中、先頭に立って運び出しました。

大正13年10月、新校舎が再建され、15日に横網町に移転しました。

関東大震災により被災した日本大学中学校

関東大震災により被災した日本大学中学校

大正13年に落成した日本大学中学校の校舎(『加納金助先生を偲ぶ』より)

大正13年に落成した日本大学中学校の校舎(『加納金助先生を偲ぶ』より)

3度日本大学に入学

明治37年9月 高等師範部2年生(中央)(『加納金助先生を偲ぶ』より)

明治37年9月 高等師範部2年生(中央)(『加納金助先生を偲ぶ』より)

加納金助は、明治16年(1883)に千葉県下埴生郡小菅村(現成田市小菅)で代々農業を営む藤崎譲助の三男として生まれました。31年、成田英漢義塾に入学。同塾は、10月に私立成田中学校(現成田高等学校)として認可を受け、県下で2番目の中学校となりました。

卒業後、上京して國學院(現國學院大學)に学びましたが、明治36年9月、日本大学高等師範部に入学しました。翌年、学業成績優秀により特待生となり、39年に卒業すると、専門部法律科に進みました。41年には、佐倉藩で藩医を務めた加納家(当主正治は獣医師)の長女と結婚し、加納家の養子となりました。

大学部法律科卒業証書(『加納金助先生を偲ぶ』より)

大学部法律科卒業証書(『加納金助先生を偲ぶ』より)

明治42年大学部法律科に進学、3度目の日本大学入学となりました。大正元年(1912)11月から日本大学職員となり、前述したように付属中学校の設立に関わりますが、学業もおろそかにせず、4年1月に卒業し、日本大学法学士を授与されました。

大正13年3月、日本大学中学校内に、夜間の乙種実業学校
※の日本大学工学校(土木・建築・機械科)が併置され、加納が校長に就任しました。
同年9月、横網町の新校舎への移転を前に商業科を加えた日本大学商工学校を設置、昭和2年(1927)2月には、甲種実業学校である日本大学商業学校に再編されます。校長は、昭和10年2月まで一貫して加納が務めました。
※実業学校は、工業・農業・商業などの従事者養成の教育機関。甲種は卒業後上級学校への進学資格があり、乙種にはない。

昭和3年7月、日本大学運営機構の改革があり、加納は日本大学第二商業学校校長山野井亀五郎と共に、常務理事に任命されました。

大正14年5月 商工学校校友会創立総会であいさつをする加納校長(『加納金助先生を偲ぶ』より)

大正14年5月 商工学校校友会創立総会であいさつをする加納校長(『加納金助先生を偲ぶ』より)

東京高等獣医学校の設立に貢献

大正15年(1926)の獣医師法改正により、獣医師免許は大学か専門学校で獣医学を修めた者が得られることとなりました。

明治40年(1907)に甲種実業学校として創立した東京獣医学校は、昭和初年、専門学校設立のために必要な財政上の問題を、日本大学との合併によって図ろうと決議しました。しかし、交渉は難航し、その間に常務理事となった加納に働きかけましたが、日本大学側の承認は得られませんでした。

加納は養父が獣医師だったこともあり、獣医師教育に関心を持ち、個人として協力を申し出ました。その結果、昭和5年(1930)3月、日本初の私立獣医学専門学校である、東京高等獣医学校が設立され、加納は理事長に就任しました。校長には、予備役となっていましたが初の陸軍獣医総監(中将相当官)で、草創期から東京獣医学校の講師も務めていた武藤喜一獣医学博士を迎えました。

その後、麻布獣医専門学校(昭和9年)と日本高等獣医学校(昭和13年)が専門学校の認可を得ましたが、戦前設立の私立獣医学専門学校は、この3校のみでした。

東京高等獣医学校からは、卒業後に陸軍獣医官に進む者もあって、戦時下での入学希望者は急増し、昭和18年の志願者数は合格者数の37倍にも達しました。20年1月には、文部省の指示で東京獣医畜産専門学校と改称。24年2月には、新学制による東京獣医畜産大学の設置認可を受けました。

一方、甲種実業学校としての東京獣医学校は、昭和10年5月、畜産家や食肉・乳製品などの加工業従事者の育成に当たる東京畜産工芸学校に改組されました。

東京高等獣医学校千葉県人会(昭和15年、前列中央加納金助、その左大森智堪)(『加納金助先生を偲ぶ』より)

東京高等獣医学校千葉県人会(昭和15年、前列中央加納金助、その左大森智堪)(『加納金助先生を偲ぶ』より)

昭和17年ころの東京高等獣医学校・東京畜産工芸学校の校門(『東京畜産工芸学校 第6期生卒業写真帳』より)

昭和17年ころの東京高等獣医学校・東京畜産工芸学校の校門(『東京畜産工芸学校 第6期生卒業写真帳』より)

日本第一学園理事長に就任

日本大学第一高等学校・中学校前に建つ「加納金助先生像」

日本大学第一高等学校・中学校前に建つ「加納金助先生像」

昭和16年(1941)6月に日本大学中学校は日本大学第一中学校、7月に日本大学商業学校は日本大学第一商業学校と改称しました(両校総称して第一普通部)。

昭和21年3月、日本大学は、戦後政策の下で運営方針の転換をはかって、第一~第三普通部を法人から分離しました。第一普通部は、財団法人日本第一学園に移管され、加納が理事長に就任しました。

日本大学農獣医学部の誕生

加納は、昭和24年12月に日本大学副会頭となりました。大学昇格後、東京獣医畜産大学は運営上の課題を抱えていましたが、日本大学農学部もまた同様でした。

昭和25年、日本大学理事長古田重二良から東京獣医畜産大学理事長の加納に合併話が持ちかけられました。東京獣医畜産大学では、常務理事の大森智堪(後に日本大学理事・顧問)が学内を調整し、結果的に両法人の理事会は合併を決議しました。

合併に際して、東京獣医畜産大学の教職員は日本大学が引き継ぐこととなり、昭和27年3月、日本大学農学部は農獣医学部(現生物資源科学部)と改称され、獣医学科が設置されました。これに先んじて、東京畜産工芸学校の後身である付属高等学校も移管され、26年10月、日本大学鶴ヶ丘高等学校となりました。

また、昭和21年に千葉市議会の推挙で2回目(前回は昭和8年)の千葉市長に就任。22年には公選制最初の千葉市長に当選し、戦後の復興事業を推進しました。退任後の25年6月、第2回参議院議員通常選挙に出馬して当選、国政に参画しましたが、在任中の28年12月、70歳で亡くなりました。

昭和24年10月、国体競技視察中の高松宮殿下(前列右)と加納千葉市長(同左)(『加納金助先生を偲ぶ』より)

昭和24年10月、国体競技視察中の高松宮殿下(前列右)と加納千葉市長(同左)(『加納金助先生を偲ぶ』より)

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