日本大学の歴史

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日本大学第二学園初代理事長 山野井 亀五郎 Kamegoro Yamanoi

1878年生〜1954年没

山野井 亀五郎

大正中期から昭和初期にかけて、総合大学化を進めていた日本大学は、中等教育の拡充も図り、昭和2(1927)年に日本大学第二中学校を設置しました。この時、建設の計画を進めたのが山野井亀五郎です。以来、第二普通部(旧制第二中学校・商業学校)、日本第二学園(新制第二中学校・高等学校)の経営・教育に精魂を傾け、都下有数の学園に育てました。その間、日本大学では理事・常務理事・副会頭の要職を歴任、昭和29(1954)年に亡くなるまで日本大学の発展に寄与しました。第16回で紹介した日本第一学園理事長の加納金助とは、生涯をかけ日本大学と付属校の発展に尽くした同志として、長く親交を持ち続けました。

教職から弁護士へ

山野井は、明治11(1878)年12月、愛媛県温泉郡村(現市)の森惣右衛門の5男として生れました。明治32(1899)年に愛媛県師範学校を卒業し、北伊予尋常高等小学校や松山師範学校付属小学校の訓導となりました。明治35年、恩師の村井俊明(華亭と号す)の次女で山野井家の養女となっていた秋子と結婚し山野井姓となりました。

歌人・国文学者であった村井は、愛媛県師範学校、松山中学校などで長く教鞭を執り、生徒に厳格な精神教育を行うとともに深い愛情を注ぎました。多くの生徒から敬慕され、教え子の中には秋山真之、正岡子規、高浜虚子などがいます。山野井も教え子の一人で、村井の教育思想に心服し、それは第二普通部での教育に活かされています。

山野井は明治39年に松山高等女学校教諭に抜擢され、将来を嘱望されましたが、青雲の志を抱き41年3月に退職して上京、4月に日本大学高等師範部(修身法制経済科)に入学しました。小学校訓導を勤めながら夜間に大学に通い、43年に卒業すると法曹を目指し日本大学法律科に入学、大正3(1914)年、難関の判事・検事登用試験と弁護士試験の双方に合格しました。弁護士の道を選んだ山野井は、東京市京橋区会議員選挙にも当選し、学務委員長として関東大震災後の小学校復興に尽くしました。

松山師範付属小学校時代、中央が山野井(明治40年)『山野井亀五郎先生』より

松山師範付属小学校時代、中央が山野井(明治40年)『山野井亀五郎先生』より

第二普通部の発展に尽力

創立当時の第二中学校、正門は現在の南門、銀杏の木はまだ小さい 『山野井亀五郎先生』より

創立当時の第二中学校、正門は現在の南門、銀杏の木はまだ小さい 『山野井亀五郎先生』より

日本大学の総合大学化を進めていた学長山岡萬之助は、中学校の増設を意図し、山野井に第二中学校設置を命じました。この頃、山野井は弁護士・政治家として多忙な生活を送っていましたが、もともと青少年の教育に関わっていたことから、高邁な理想を持って第二中学校建設に臨みました。

昭和6〜9年頃 右から山野井(二商校長)、武井秀吉(二中校長)、会田考一郎(後援会長)『山野井亀五郎先生』より

昭和6〜9年頃 右から山野井(二商校長)、武井秀吉(二中校長)、
会田考一郎(後援会長)『山野井亀五郎先生』より

大正15(1926)年、山野井は校地として、雑木林と畑の広がる東京府豊多摩郡杉並町字天沼(現杉並区天沼)を選定しました。地主との交渉、入学者の確保や資金調達など多くの困難に直面しましたが、この時山野井は、校舎、雨天体操場、寄宿舎等の建築工事費のため私財を投じています。昭和2(1927)年4月に第二中学校は開校し、翌年に夜間の第二商業学校を併設、7年には第二商業学校の本科(昼間授業)も設けました。山野井は幹事長(のち総務)として、第二普通部の経営を行い、第二商業学校では校長も務めました。校訓は、日本大学の「建学の主旨及び綱領」に則り、「至誠奉公」「質実剛健」「感謝報恩」と定めています。

日本大学は関東大震災で多大な被害を受けましたが、昭和の初めには復興し、教育組織を拡大します。学部・学科、付属校の増加に対応して、昭和3(1928)年に組織機構を改革、山野井は阿佐ヶ谷(第二普通部)の総務を担当する常務理事に就任しました。
この頃から、山野井は弁護士活動を制限し、衆議院議員選挙への出馬も断念して、第二普通部の教諭陣の充実、施設の整備に全力を尽くしました。働きながら学ぶ商業学校の生徒には、「人生は努力なり」と語りかけて励まし、生徒からは親しみを込めて「おやじ」と呼ばれていたといいます。第二中学校は、昭和10年代になると、多くの卒業生が有名私立大学や官立の高等学校・専門学校、陸海軍の学校に進学するようになり名声が高まりました。文化・体育面にも力を入れ、吹奏楽・ラグビー・陸上競技・野球部などは、戦後全国大会で活躍するまでに成長します。
一方、山岡が総長に就任した昭和8年10月に、山野井は、日本大学全体の財務を担当する常務理事にも就任しました。組織の拡大にともない巨額化した財政を任されたことは、いかに山岡の信頼が厚かったかを示しています。

火災からの復興も果たす

戦後、日本大学の体制は大きく変化し、昭和21(1926)年3月、第二普通部は日本大学から財団法人を分離して、新たに日本第二学園(現日本大学第二学園)を設立し、山野井が理事長に就任しました。23年には、学制改革によって新制の日本大学第二中学校・高等学校が発足し、山野井が理事長・校長を兼任しました。翌24年には、女子部を併設しています(現在は共学)。そして、26年には、新学校教育法に基づき財団法人から学校法人に改めました。この頃に校訓を、日本人的自覚に基づいて、新たな時代に対応した「信頼敬愛」「自主協同」「熱誠努力」に改めています。

昭和25年12月 右から山野井(第二学園理事長)、加納金助(第一学園理事長)、鎌田彦一(第三学園理事長)、山岡萬之助(前総長)『山野井亀五郎先生』より

昭和25年12月 右から山野井(第二学園理事長)、加納金助(第一学園理事長)、
鎌田彦一(第三学園理事長)、山岡萬之助(前総長)『山野井亀五郎先生』より

この間、昭和23年から24年にかけて、原因不明の火災に3度見舞われています。校舎の大半が焼失し再起不能とまで噂されましたが、山野井はこの苦難に屈せず、応急の校舎を設置し、続けて校舎の増築、設備の充実を重ね、陸上グラウンド、野球場、体育施設の整備を行いました。昭和26年には、創立25周年記念事業として、理科の実験室、女子部の家庭科室を完備した特別教室を設置し、火災からの復興を遂げています。

山野井亀五郎先生の像

山野井亀五郎先生の像

創立当時、交通が不便な原野であった天沼は、現在住宅地に大きく変貌しました。
広大な校地に完備した校舎、施設・設備を持つ第二学園は、都内で屈指の教育環境を誇っています。校内には、創立頃に植樹された銀杏の並木が高く聳え立ち、学園のシンボルとなっています。正門入口には、山野井の銅像(創立40周年に建立)が置かれ、校訓三則とともに生徒を見つめ続けています。

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