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日本航空界の重鎮 木村 秀政 Hidemasa Kimura

1904年生~1986年没

木村 秀政

日本大学の工学系教育は大正9年(1920)6月に、当時最も必要とされていた中堅技術者を養成するため、高等工学校を設置した時から始まりました。以後、工学部、専門部工科、工業学校などを設置し、多くの技術者を社会に送り出しています。
その中で、工学部の教授として、学生とともに軽飛行機・人力飛行機の研究・開発を行い、半生を彼らとともに歩んだのが木村秀政です。

工学部教授への就任

木村は、明治37年(1904)、旧南部藩の代官(青森県五戸町)を勤めた家系に生まれました。昭和2年(1927)に東京帝国大学工学部を卒業し、昭和9年(1934)に同大航空研究所嘱託となり、昭和20年(1945)には教授に就任しています。しかし、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の指令により、日本の航空活動は禁止されたことから、勤務先の航空研究所が廃止となり、退官を余儀なくされました。そこで、昭和22年に日本大学工学部の教授に就任することとなったのです。木村は自伝『わがヒコーキ人生』の中で日本大学での軽飛行機・人力飛行機の製作をめぐる学生との関わりを語っています。

学生と飛行機製作に着手

木村は日本大学において機械工学科に所属し、最初に担当した講義は、材料力学と振動工学でした。長い間、官立大学で過ごしてきた木村が、まず驚かされたことは、学生に大きな学力の差があることでした。優秀な学生の中には、木村も教壇で何回かやりこめられることがありました。反面、何回再試験をやっても、きまって落第点を取る者もいました。しかし、そういう学生は概して人情に厚く、卒業後も木村と交流を持ち、社会的地位を得て活躍する者もいました。日本大学にはさまざまなタイプの学生が存在していたのです。

昭和27年(1952)にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本の航空活動が許可され、飛行機の研究が自由に行えるようになりました。早速木村は自分の研究室に集まってきた、飛行機の好きな学生とともに、二人乗り軽飛行機を製作しました。まだ、学生に設計や強度計算を行う実力がなかったので、基礎計算以外は外部に委託しました。機名はN52、「N」は日大の頭文字で、「52」は1952年に開発に着手したことを表したものです。以後、この命名法が日大製の飛行機の慣例になっています。N52の初飛行は、昭和28年4月に浜松飛行場で行われました。設計は戦後の日本で最初に着手しましたが、製作に手間取ったことから、初飛行の一番乗りは逸しました。

木村秀政の研究室

木村秀政の研究室

さまざまな飛行機を開発

昭和33年(1958)に着手し製作したN58は、135馬力の4人乗の軽飛行機でした。昭和30年(1955)に機械工学科のなかに航空専修コースが設置され、航空工学の専門教育が施されるようになりました。そのため設計図や強度計算はほとんど学生の手で行うことができました。この飛行機は10年間飛び続け、その間に日本一周や韓国訪問飛行にも成功しました。多くの学生がN58による訓練で自家用操縦の免状を取りました。

N58(シグネット号)

N58(シグネット号)

昭和37年(1962)に着手したN62は、160馬力4人乗りで、伊藤忠航空整備と共同で開発した本格的な軽飛行機でした。この飛行機は学生の操縦訓練に役立ち、学生の操縦で2度も韓国訪問飛行を行っています。

昭和45年(1970)に着手したN70は、自動車エンジンをつけたモーターグライダーで、わが国では初めての試みでした。製作にあたっては、グライダー製作の専門家の指導を受けましたが、基礎計画から細部設計、風洞実験から飛行実験まで、すべて学生の手で行ないました。このように、一つの大学でいろいろな飛行機が開発されるのは、世界でも珍しいことです。

人力飛行機の製作にも挑戦

また、木村は人力飛行機の製作にも挑戦しました。古くから、多くの人が人力飛行機に挑戦しましたが、ことごとく失敗しています。そのような中で、昭和36年(1961)に、イギリスのサザンプトン大学で作った人力飛行機が世界で初めて成功しました。続いて、昭和37年にイギリスのデ・ハビランド飛行機会社のチームが910メートルの距離記録を作りました。

その後、各国で人力飛行機が試作されましたが、どれも成功しませんでした。人力飛行機は高い技術が要求されますが、やりがいがあり何より夢がありました。木村は、これこそが飛行機に熱心な日本大学の学生にとって絶好のテーマではないかと考え、昭和37年度の卒業研究のテーマに取り上げることにしたのです。

しかし、始めてみると、すぐに思った以上の困難な仕事であることに気付きました。まず、人間がパイロットとエンジンの2役をすることから、飛行機操縦の技術をもち、体重の割りに脚力の強い学生が必要でした。また、日本人にはイギリス人のような馬力は期待できそうもなく、イギリス機よりもっと軽くて、性能のよいものを作らぬ限り成功の見込みはありませんでした。

個性に富んだ学生たちが参加

しかし、学生たちは張り切ってこの課題に取り組みました。こういう仕事をさせてみて、木村は今まで見落としていた大切なことに気付きました。平常は学生を評価する時、どうしても学力を主にしてしまう。ところが、人力飛行機の試作というひとつのプロジェクトになると、仕事が多岐にわたります。難しい理論計算は成績優秀な学生の役目となります。しかし、理論計算だけでは飛行機はでき上がりません。手先が器用な上に、工作の手順を考えて、構造物を正確に作り上げる才能も必要となります。性格や能力のちがう多数の人間の特徴を見抜いて適材適所に配置し、彼らを引っ張っていける人間もいなくてはなりません。仕事が忙しくなると、心身ともに疲れて皆がイライラしてくる。こんなとき、皆の気分をときほぐすユーモラスな人間も重要です。とりたてて特技は持たないが、黙々と仕事に取り組む粘り強い学生の存在も仲間を勇気づけます。

このようないろいろな性格や能力をもった人間が集まり、きちんとしたリーダーの下で協力しないと、人力飛行機のような難しいものは、成功することができません。人力飛行機に取り組むグループには、このような個性に富んだ学生たちが参加しました。彼らは、それぞれの能力に適した仕事に取り組み、寝食を忘れて没頭しました。

日本初の人力飛行と世界記録の樹立

昭和41年(1966)、3年がかりで製作した人力飛行機「リネット号」は、飛行距離はわずか15メートルでしたが、わが国最初の人力飛行に成功しました。木村は、まわりにいる学生と握手したり、肩をたたいたりして喜びを分かち合いました。

日本最初の人力飛行に成功した「リネット号」

日本最初の人力飛行に成功した「リネット号」

この時以来、木村の研究室では、毎年卒論研究としてほぼ一機の割合で、人力飛行機に取り組み、先輩から後輩へと、課題を受け継ぎながら改良が重ねられました。その結果、昭和51年(1976)に人力飛行機「ストーク号」で、446メートルの日本新記録、翌52年には、「ストークB号」で、飛行距離2,093メートル、滞空時間4分27秒80の世界記録を樹立しました。

人力飛行機製作風景

人力飛行機製作風景

なお、木村が設けた航空専修コースは、昭和48年(1973)に航空宇宙工学コースとなり、同53年に航空宇宙工学科となりました。また、航空工学に関する設備も整備され、習志野校舎には滑走路や格納庫、さらに各種実験資材も完備されています。

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