弘化3年(1846)阿波国(現徳島県)に生まれる。徳島藩校長久館に学ぶ。明治4年(1871)司法省に出仕し、東京・神戸裁判所長、広島控訴裁判所長、司法大書記官、東京控訴院長、検事総長、内務次官、行政裁判所長官を経て、明治39年(1906)農商務大臣に就任。貴族院議員、枢密顧問官、男爵。明治26年日本法律学校第2代校長、36年本学初代学長、大正11年(1922)初代総長就任。学祖山田顕義急逝後、廃校の危機に瀕していた日本法律学校の再興に尽力し、30年間にわたり本学の発展に寄与した。
大正12年(1923)関東大震災の折に葉山で死去、78歳。