吉田松陰から薫陶を受けた後、山田顕義は大村益次郎に兵学を学び、幕末に戦闘が絶え間なく続いた長州藩において、軍人としての才能を発揮していきます。
大村は医者の子として生まれ、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で学び、その洋学への造詣の深さから、蕃所調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝・講武所教授として幕府に仕えた人物で、後に長州藩に出仕して洋式兵学を教授しています。
山田顕義の初陣は、元治元年(1864)7月の「蛤御門の変」でしたが、目立った活躍はしていません。帰国後、御堀(みほり)耕助・品川弥次郎らと御楯隊を結成し、元治元年12月に起こった藩の内戦には、同隊の軍監(指揮官)として参加しました。そして2度の実戦経験を経たこの内戦の後から、慶応2年(1866)6月の「第2次長州征討(四境戦争)」開始までの約1年半と、翌3年に、御楯隊を拡充した整武隊の総管(総指揮官)となって上洛するまでの約1年間が、大村益次郎に接して、彼の持つ兵学を含めた洋学の知識を習得した時期であったと考えられています。
大村が教授した兵学は、フランス式を基本にはしましたが、軍用馬の数が少なく、騎兵が整備できなかった日本の状況に合わせ、銃砲火力の重視、つまり歩兵の小銃と砲兵による火力の統合運用を基本としたものでした。ただし、その実践には国防(長州では郷土防衛)意識を持った市民(町人や農民)による軍隊が必要であり、高杉晋作が創設した奇兵隊に始まる諸隊の編成と、身分制に依らず、顕義や後に元帥となった山県有朋など、若手の優能な人材を指揮官に登用したことが、旧習に捕らわれない部隊運用をより効果的にしました。この点が西洋式の装備のみを採り入れ、人材登用は不充分な幕府軍との大きな違いでありました。
大村兵学の優位性は、「第2次長州征討」において、石州口の指揮を取った大村自身も含め、高杉や顕義らが、幕府軍を相手に実戦で証明しました。