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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

欧米への視察(岩倉使節団)

岩倉使節団

フランス滞在時の山田顕義(左から1人目)

フランス滞在時の山田顕義(左から1人目)

大村益次郎の遺志を継いで日本近代陸軍の創設に尽力した山田顕義は、明治4年(1871年)に岩倉米欧使節団の一員として欧米諸国を歴訪します。海外の先進技術や文化を目の当たりにした顕義の欧米体験は、その後の人生を大きく変えることとなります。

明治4年(1871年)11月、顕義は岩倉使節団の兵部省理事官として欧米諸国歴訪に出発し、明治6年6月に帰国しました。
当時の日本は近代国家として胎動し始めた時期であり、使節団の派遣は、いち早く諸外国の優れた制度を導入することが目的でした。そのため、使節団は稀に見る大規模な編成となり、岩倉具視特命全権大使を筆頭に、副使4人、理事官・書記官・随行・男女留学生など総勢100人を超えました。本学関係者としては、初代校長の金子堅太郎も藩主黒田長知の随行員として派遣されています。

岩倉使節団派遣当時の山田顕義(個人蔵)

岩倉使節団派遣当時の山田顕義(個人蔵)

横浜を出航した使節団一行は、太平洋をわたり12月にサンフランシスコに上陸します。その後、サクラメント、ソルトレーク、シカゴを経て翌5年1月21日にワシントンに到着しました。岩倉大使一行は、条約改正交渉のため6月までワシントンに滞在しますが、山田顕義ら兵部省関係者は2月17日にワシントンを出発し、ヨーロッパに向かいます。フランスへ渡った顕義は、パリを拠点にロンドン、ベルリン、ペテルブルクなどの主要都市を歴訪して軍事制度の調査・研究にあたりました。
この欧米視察では、顕義は同郷の先輩である木戸孝允と共に行動をする機会が多く、開明的な木戸の思想と欧米の先進技術・文化との接触は、山田顕義の後半生を大きく変えることとなります。

帰国後の建白書

明治6年(1873)5月1日に顕義は木戸とともにウィーンで開かれた万国博覧会の開会式に出席し、その後6月24日に横浜へ帰国しました。顕義の欧米諸国の調査については、帰国後に太政官に提出した建白書(理事功程)によって、彼が何を感じ取ったのか窺い知ることができます。

のちに刊行された「山田顕義建白書」

のちに刊行された「山田顕義建白書」

顕義の建白書は各国の兵学・編制や徴兵制に関して論じられており、兵部省理事官の報告としてはかなり詳細なものとなっています。しかし、内容は必ずしも軍事に関することのみに留まらず、「敵兵よりも知識において優れた人民(兵卒)を育成する」ことが重要であると、教育の重要性を指摘しています。

また、「国法を定め、欧米諸国の国法と我が人民慣習の法とを斟酌し国法の條目を審議」する必要があるとし、法律制定の重要性についても指摘しています。

この建白書は明治6年に提出されたもので、顕義が司法大輔に就任するのは翌年の明治7年です。欧米の軍事制度を見聞した山田顕義でしたが、日本の将来を考えたとき、兵制・軍事よりも教育と法律の整備こそが急務であると感じたのでしょう。

後に法律の世界へ身を転じ、一方で本学の前身である日本法律学校の設立に深く関与した山田顕義の後半生には、この欧米歴訪という経験が重要な部分を占めているといっても過言ではないでしょう。

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