山田顕義は、弘化元年(1844)、長州藩の城下町萩(現・山口県萩市)に萩藩士山田顕行(あきゆき)の長男して生まれました。幼名は市之允(いちのじょう)、後に顕義と改名します。
山田顕義を輩出した山田家は、大組士という長州藩でも中ほどの家格で、禄高は102石でした。親戚には、藩政改革の指導者である村田清風や山田亦介など、幕末期に長州藩で活躍した人物がいます。村田清風は長州藩の財政改革を指導し、「八万五千貫の大敵」というスローガンのもと、倹約を奨励するとともに殖産興業に力を入れました。清風による財政改革がなければ、幕末における長州藩の活動はかなり制限されていたことでしょう。
顕義の伯父で長沼流兵学者である山田亦介は、吉田松陰に兵学を教授した人物で、洋学にも造詣が深く、長州藩の軍制改革総責任者として洋式海軍の創設などに尽力しました。安政2年(1855)と安政5年、長州藩は長崎海軍伝習所に洋式軍事技術を学ぶ伝習生を派遣します。このとき、顕義の父山田顕行も伝習生として派遣され、顕行は慶應2年(1866)には、海軍頭取に就任しています。
元治元年(1864)、禁門の変に長州藩が敗れ、長州藩内が幕府への恭順派で占められると、急進派である山田亦介はとらえられて処刑、村田次郎三郎(のちに大津唯雪)は捕縛され、顕行は謹慎を命ぜられました。
河上弥市は村田清風の妹秀の孫で、顕義より1歳年長の再従兄です。奇兵隊に参加し、のちに奇兵隊総督となりました。尊攘派公卿の澤宣嘉を擁立して生野(現在の兵庫県)で挙兵しますが、近隣諸藩兵に囲まれ自刃しました。高杉晋作は弥市の死を深く惜しんだ漢詩を残しています。
顕義の夫人龍子は、山口湯田温泉にある「瓦屋」旅館の主人鹿嶋喜右衛門の長女で、井上馨の養女となって山田家に嫁ぎました。
このように改革派や洋式兵学にも長けた人物を輩出している山田家の血脈は、顕義にも色濃く受け継がれていくこととなります。
山田顕義の生家は、山口県萩市の中心部から東に約2キロ、地元の人たちが「かとり山」と呼ぶ小山のふもとにありました。現在は、顕義の遺徳を顕彰した史跡公園「顕義園(けんぎえん)」が整備されています。
昭和54年9月、日本大学が建学90周年を記念して建設した顕義園は、総面積1774平方メートル。周囲には石州瓦を載せた白地の築地塀がめぐらされ、当時の長州藩の中級武士の屋敷の面影を伝えています。入口には「山田顕義生誕地」の石柱、また園内には「山田顕義先生之像」が建てられているほか、日本大学の各学部や付属校、OB会などによって植樹されたサクラやツバキ、ソテツなどの木々が四季折々の風情をたたえています。
学祖の師・吉田松陰を祀る松陰神社や松陰の墓所、学祖が学んだ松下村塾、藩主毛利家の菩提寺・東光寺などの史跡も徒歩圏内です。
本学100周年記念事業の一環で、護国寺の山田顕義墓所改装とともに、ご子孫の了承を得て遺体や埋葬品などの学術調査が実施されました。このとき、学祖の遺骨から複顔像を作成し、これをもとに学祖の声を再現しました。