日本大学の歴史

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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

日本法律学校の創立

私立法律学校開設の動き

明治政府の近代化政策は、欧米の法制を積極的に取入れる方針で、法学教育も司法省明法寮法学校で開始されていきました。明治13年(1880)、近代法典としての刑法・治罪法が制定されると、法学教育はこれらの近代法典を体系的に教授する本格的な私立法律学校開設が社会的な要請となりました。そして、東京法学社(のち和仏法律学校、法政大学の前身)や専修学校(専修大学)の創立をはじめとして、明治法律学校(明治大学)、東京専門学校(早稲田大学)等、明法寮法学校で学んだ知識人や留学体験者により学校が開設され、今日の私立学校の基礎となったのでした。

これら私立法律学校の特徴は、明治法律学校・和仏法律学校がフランス系法学、専修学校・英吉利法律学校(中央大学)がイギリス系法学というように、それぞれがモデルとする外国法の系統にしたがって法学教育の内容を決定していたことです。

山田顕義は、当事の法学教育は欧米法が主流で、日本の歴史や文化から乖離した知識を教えるものであり、現実に即した日本法学の研究こそが喫緊の課題と考えていました。
しかし、日本法律を教育するための私立学校設立の必要性を痛感しながらも、顕義は司法大臣の立場上、なかなかその意を実現することができませんでした。

日本法律学校設立計画

一方で、山田顕義とは別に日本法律を教授する学校の設立が計画されていました。この計画は帝国大学教授の宮﨑道三郎を中心とする若手の法律学者らが進めていたもので、彼らの多くはドイツへの留学経験者でした。彼らは、当時ドイツで主流となりつつあった、法の歴史的研究を重視する歴史法学派の影響を受け、日本でも歴史・文化・伝統に立脚した日本の法律を学ぶ法律学校が必要であるという考えに達していました。

日本法律学校創立者総代 宮﨑道三郎

日本法律学校創立者総代 宮﨑道三郎

日本法律学校初代校長 金子堅太郎

日本法律学校初代校長 金子堅太郎

日本法律学校広告(明治23年4月2日付朝野新聞)

日本法律学校広告(明治23年4月2日付朝野新聞)

顕義は、宮﨑道三郎らが自分と同じ趣旨で日本法律の学校設立計画を進めていることを知り、彼らを全面的に支援することとなります。校舎は顕義が所長をしていた皇典講究所を借りることとなり、明治22年(1889年)10月4日、日本大学の前身である日本法律学校が誕生しました。

現在、日本大学では、創立に関与した宮﨑道三郎や金子堅太郎などの若き法律学者など11名を創立者とし、彼らを全面的に支援した司法大臣山田顕義を学祖としています。

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