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施設紹介

顕義園

日本大学ゆかりの地 学祖 山田顕義誕生地「顕義園」

顕義伯の功績をたたえる史跡公園

▲顕義園の入口(山口県萩市)

◀園の入口にある「山田顕義生誕地」の石柱

顕義園に設置されている「山田顕義先生之像」▶

緑で覆われた「顕義園」▶

▲顕義園の入口(山口県萩市)

◀園の入口にある「山田顕義生誕地」の石柱

顕義園に設置されている「山田顕義先生之像」▶

緑で覆われた「顕義園」▶

日本大学の学祖である山田顕義の生家は、山口県萩市の中心部から東に約2キロ、地元の人たちが「かとり山」と呼ぶ小山のふもとにありました。
現在は、顕義の遺徳を顕彰した史跡公園「顕義園(けんぎえん)」として整備されています。

昭和54年(1979年)9月、日本大学が建学90周年を記念して建設した「顕義園」は、総面積1774平方メートル。周囲には石州瓦を載せた白地の築地塀がめぐらされ、当時の長州藩の中級武士の屋敷の面影を伝えています。

入口には「山田顕義生誕地」の石柱、園内には高さ1.1mの台座に建つ高さ2.4mの「山田顕義先生之像」が建てられているほか、日本大学の各学部の石碑や各学部や付属校、OB会などによって植樹されたサクラやツバキ、ソテツなどの木々が四季折々の風情をたたえています。

「顕義園」の高台からは、萩市の遠望も楽しめます。

日本大学の学祖「山田顕義」とは

日本大学の学祖である山田顕義は、最年少の門下生として14歳で吉田松陰が主宰する松下村塾に入門します。高杉晋作や久坂玄瑞らと交流し、長州の志士として歩み始めた顕義は、大村益次郎から兵学を学び、幕末に戦闘が絶え間なく続いた長州藩において軍人としての才能を発揮、諸隊を率いて幕末・維新の動乱を駆け抜けました。明治初年、日本近代陸軍の創設に尽力、岩倉使節団で欧米諸国を回覧後は、近代法の整備が急務であると痛感し、以後近代法整備事業に取り組んでいきます。一方で教育普及にも力を注ぎ、明治22年には日本法律学校(現日本大学)、翌年には國學院(現國學院大學)の創立に尽力しました。

詳細は、日本大学の歴史「学祖:山田顕義」のページをご覧ください。

見どころ

  • 誕生地石碑
  • 萩焼で作られている山田家家紋。頭あわせ三つ根付き笹竜胆。
  • 園を囲う白壁の瓦に「日本大学」の文字
  • 「桜の植樹」記念碑

「顕義園」と「楫取素彦旧宅地」を結ぶ遊歩道

萩市にある学祖・山田顕義の誕生地「顕義園」と、隣接する初代群馬県令・楫取素彦(NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で活躍中の小田村伊之助のこと)の旧宅地を結んだ遊歩道が本学と萩市の共同で整備され、2015年4月に完成しました。

楫取素彦(小田村伊之助)は、吉田松陰の友であり、学祖も学んだ「松下村塾」にて松陰の後継者として指導にあたった人物で、現在放送中のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公である文(のちの美和子)、そして姉の寿と、松陰の妹2人と結婚した幕末の長州の志士です。

「顕義園」と「楫取素彦旧宅地」を結ぶこの遊歩道の整備は、萩市からの協力呼び掛けに本学が応えたもので、楫取宅跡の東屋から約80mの山道を抜ければ萩市内の眺望が楽しめる顕義園の高台へ通じるようになりました。
そこから整備された階段を下ると学祖の銅像、さらに顕義園の入り口へと続いています。

付近には学祖の師・吉田松陰を祀る松陰神社や松陰の墓所、学祖が学んだ松下村塾、藩主毛利家の菩提寺・東光寺などの史跡もありますので「楫取素彦旧宅地」、「顕義園」と合わせて幕末歴史散策してみるのはいかがでしょう!

遊歩道のご案内

  • 「顕義園」と「楫取素彦旧宅地」の進路案内
  • 「楫取素彦旧宅地」から遊歩道で移動した際の「顕義園」への入口
  • 「楫取素彦旧宅地」跡地

アクセス

 

所在地 :〒758-0011 山口県萩市椿東中ノ倉の2

遊歩道のご案内

最寄り駅:JR山陰本線「東萩駅」
※最寄り駅からは、バスのご利用をおすすめします!
※山口県萩市までの交通アクセスは、「萩市観光協会ホームページ」をご覧ください。
※山田顕義誕生地 (顕義園)ページは「こちら」をご覧ください。

バスで(JR東萩駅、または萩駅から)

萩市役所発着の「萩循環まぁーるバス(東回りコース「松陰先生」)」で、バス停「東光寺前」より徒歩8分。
萩循環まぁーるバスのホームページ
人丸神社方面に向かい、民家の間を左に入って細い道を進むと小さな橋があり、橋を渡ってすぐ左手。案内板がでています。

お車で

県道11号から「東光寺入口」の信号を東光寺方向へ。
駐車場は、「楫取素彦旧宅地」横の駐車場をご利用ください。