本学夏季オリンピックの軌跡

スポーツ
2020年01月28日

戦前

ベルリン大会800mリレーに出場した遊佐選手などの写真

ベルリン大会800mリレーに出場した遊佐(右から2人目)

本学初の夏季オリンピアンは佐藤八郎で、1928年アムステルダム大会の漕艇・舵つきフォアに出場した。敗者復活戦敗退という結果だったが、スポーツ日大を掲げる本学にとって忘れることのできないアスリートと言えるだろう。

その4年後のロサンゼルス大会で記念すべき本学初の金メダリストが誕生する。競泳の遊佐正憲と豊田久吉が共に800mリレーに出場しての獲得だった。同大会での競泳陣は金銀銅合わせて12個のメダルを獲得しており、日本水泳界の強さを世界に見せつけ、その一端を2人が担ったことになる。なお、豊田の孫の渡辺健司もオリンピアンで、84年のロス、88年のソウル、92年のバルセロナと3大会連続で出場。メダルには手が届かなかったが、バルセロナの200m平泳ぎでは7位入賞を果たした。

遊佐は36年のベルリン大会にも出場し、800mリレーで金、100m自由形で銀を獲得し、2大会連続で活躍した。同大会では競泳200m平泳ぎの葉室鐵夫もドイツのエルヴィン・ジータスとの接戦の末に勝利し、金メダルに輝いている。葉室は40年に引退するまで200m平泳ぎの世界ランキング1位に君臨した。

戦後~80年代

戦後初めて日本がオリンピックに出場したのはベルリン大会から16年後のヘルシンキ大会で、本学の競泳陣が活躍。鈴木弘が100m自由形、橋爪四郎が1500m自由形、鈴木、浜口喜博、後藤暢、谷川禎次郎が800mリレーでそれぞれ銀メダルを獲得した。ここで注目したいのは鈴木だ。二つの銀獲得もさることながら、戦後で唯一の100m自由形でのメダリストというのは特筆すべきことだろう。

56年のメルボルン大会では、200m平泳ぎで古川勝が金、吉村昌弘が銀を獲得した。多くの競技でメダリストを輩出する本学でもワンツーフィニッシュを飾ったのはこの1度だけだ。ちなみに古川はOBの葉室の教えで、潜水泳法を身に付け、同大会の前年に200m平泳ぎで世界記録を樹立している。この圧倒的な強さにより、国際水泳連盟はメルボルン大会後に平泳ぎでの潜水に関するルールを改正。古川は潜水泳法で優勝した最後のスイマーとなった。

種目別つり輪で金メダルを獲得した早田選手

種目別つり輪で金メダルを獲得した早田(東京大会)

60年のローマ大会では本学から競泳以外で初のメダリストが生まれた。遠藤幸雄が体操団体で金、松原正之がレスリングフリーフライ級で銀メダルを獲得した。遠藤は同大会で団体初、続く東京大会で個人総合初の金、68年のメキシコシティー大会では団体3連覇に貢献し、「体操ニッポン」の礎を築き、日本体操界の第一人者となった。

64年の東京大会では、本学から選手45人、7人の役員が参加。先述したように遠藤が体操団体と個人総合、そして平行棒で金、床運動で銀、早田卓次も団体、そしてつり輪で金メダルを獲得した。さらに吉田義勝がレスリングフリーフライ級で金に輝き、1大会で本学が最も多い金メダルを獲得した大会となった。

なお、吉田が本学の卒業式に向かう電車内で金メダルをなくしてしまうという事件が起きる。88年に小林孝至もソウル大会で獲得した金メダルを紛失。どちらも無事に戻ってきたが、本学のレスリング選手がメダルに関して同じ経緯をたどるというのは奇妙な巡り合わせと言えよう。

90年代〜リオ大会

92年のバルセロナ大会では、女子200m平泳ぎに出場した岩崎恭子が14歳で当時の五輪最年少記録となる金メダルを獲得。レース直後のインタビューで「今まで生きてきた中で、一番幸せです」とコメントし、当時の流行語になった。

2000年のシドニー大会では柔道81キロ級で「柔道界の異端児」と呼ばれた瀧本誠が金を獲得。本学で唯一の柔道での金メダル獲得者であり、瀧本を最後に本学から金メダリストは生まれていない。

記憶に新しい16年のリオ大会ではケンブリッジ飛鳥(短距離)と原沢久喜(柔道)が銀、小堀勇氣(競泳)と三井梨紗子(シンクロナイズドスイミング)が銅を獲得。日本が獲得した総メダル数41個という過去最高記録に貢献した。

なお、過去18大会で本学関係選手が獲得した総メダル数は95個(金22、銀31、銅42)で、今年の東京五輪で大台の100に届くか注目したい。