令和6年能登半島地震で被害を受けた皆さまへ

close インターネット出願・オンライン受験票・合否案内・入学手続

close 入試情報サイトへ

TOP

留学・国際交流

ベルリン自由大学 吉田岳史さん(芸術学部)

ベルリン自由大学交換留学報告書

1年間のベルリンでの留学で私が得た事、それを述べるには紙が何枚あっても足りないだろう。様々な事を学んだのは確かだが、具体的に何を学んだのか、一番影響された事について、ここで述べてみたい。

一番は、やはりいくつかの重要な「考え方」を学んだ事だと思う。
「大学」という場では、スペシャリストと呼ばれる専門家の育成に焦点が行きがちだが、今のグローバルな社会では、様々な物事に興味を持ち、全体を総合的に考えられるジェネラリストも必要だという事。狭くて深い知識も必要だが、教養と呼ばれる広く浅い知識も持ち合わせていないと、専門を超えた議論が成立しにくい。専門を超えた議論や世界中の人々にとって普遍的な問題は、これから非常に重要になってくる。いわゆる万人に共通の問題、環境問題や人権問題、原子力運動、憲法改正、沖縄軍事基地問題、フクシマの問題など。自分の事だけでなく、常に社会の一員として活動する事。これが重要である。しかし、なぜそういう視野が必要なのか。

それは、僕たちを取り巻く社会システムにもう限界が来ているからだ。たとえば、その一つに、民主主義があげられる。民主主義という言葉は古代ギリシャ語のdemoskratiaに由来する。demos は(国民)、kratiaは(権力)の意味。権力は国民に由来し、権力を国民が行使するという考えである。そのための前提条件として、まず国民がSelbstständig denken、要するに自分の頭で考えられる能力が必要である。今の「民主主義=多数決」となっているのも問題であろう。民主主義社会に生きる僕らは、基本的人権を始め権利の主張だけでなく、その反対側にある義務の方も果たさなくてはならない。

つまり、国民主権(Volkssouveränität )というのは、国の最終的なあり方を決定するのは国民である、という事。テレビや新聞、インターネット、友人との意見交換、海外メディアなどを比較検討し、総合的に判断する。それが民主主義国家に生きる僕らの義務なのだ。感情論や目先の利益などに流されないで客観視をするにはある程度の訓練を必要とするが、日本の義務教育ではそのような訓練を残念ながらしていない。つまり、日本の義務教育では民主主義国家に必要な人材を教育していない。これは、矛盾である。もちろん、日本人の民族性というモノも考慮に入れる必要がある。「出る杭は打たれる」「長い物に巻かれろ」ということわざにも代表されるように、昔ながらの日本人の生きる知恵というのも存在すると思う。しかし、21世紀に生きる僕らは一種の二重人格性を強いられる状況にいると考えるべきである。つまり、民主主義という本来欧米より輸入されたシステムのルールには従わないといけない。立憲君主国に生きる僕らには憲法という国を縛る、国の暴走を押さえる権利を持つ代わりに、法律を守らなければならない。ただ、それと同時に文化的な側面、日本の美しい風土、建築、伝統工芸、文学、これらは守っていく必要がある。グローバリゼーションという名の「画一化」に日本のすべてを任せてはいけない。TPPなどもそうだ。外国から安くて遺伝子組み換えの米が関税撤廃で輸入されたら、日本の米文化はどうなるのか。食料自給率100%の米さえもアメリカにゆだねるような社会になれば、それは日本の農業の破滅である。日本人は海外から食料をすべて頼らないといけない世界になってしまう。ただ闇雲に、日本は美しいなどと発言するとナショナリズムに結びついてしまうのでそこは丁寧に言葉を慎重に選びながら、発言、表現していくべきである。しかし、もはや右とか左とか、資本主義、社会主義とか言う時代は終わり、もっとフレキシブルに個々の問題をより具体的に考えいくべき時代に僕らは生きている。それは、ある意味、二重人格性というか、自己矛盾というか非常に苦しい、アイデンティティの喪失みたいなコトと付きあっていかないといけないが、そこは覚悟して生きていかなければならない。

そのような事を、私はベルリンにて、ナチスの犯した過ち、歴史認識、過去の罪に対する意識と責任と教育、ドイツ人政治家によるユダヤ人への謝罪、原子力発電に対しはっきりとNOと言ったドイツ国民達と議論を重ねる中で学んだ。
このままでは、日本は精神的に遅れていくだろう。どうにかして、日本独特の「平和ボケ」から抜け出していかなければならない。しかし、それと同時に日本の食文化初め美しい物も文化相対主義の立場から残していかなければ、それは、日本がアメリカになる瞬間である。個性のない世界ほど、つまらない世界はない。

政治を考えるというのは、歴史を考えるという事でもある。温故知新という言葉があるように歴史を忘れて前へ突き進んでいく事はできない。むしろ、歴史の中にこそ、学ぶべき事がたくさんあるはずである。大きな流れの中で明治維新あたりから歴史を読み直す。先代たちの努力によって今の日本があるという事に認識し、そして感謝し、それらを次の世代へと受け継ぐべき立派な大義名分が自分たちにあるという事を理解する。この義務を果たさずして権利ばかり主張するエゴイストがこの世には多すぎる。これは、ドイツにも言える事だが。

他にも、大量消費社会というシステムも今限界に来ている。消費という悪循環から逃れることができない現代人。先進国の通ってきた道を繰り返す後進諸国。「消費は美しい」というのは人間の偽善であって、かけがえのない地球のための言葉ではない。発展途上国では有名なブランドの靴や服を作るために一日100円ほどの日給で働いている子供達が大勢いる。その靴や服を1万円で買うおかしなシステムが資本主義なのである。「モッタイナイ」という国際用語は、この消費社会に対するアンチテーゼである。ぼくたちは、そのシステムにもう一度向き合って、それらの枠組みをハードとソフトの両面から見直すべき時期にいると思う。そのためには、真摯にそれらの問題に向き合って、お互いの立場を尊重しながら議論を進める必要があると思う。もちろん、議論の前提条件として自由に発言できる場を設け、匿名ではなく実名で、自分の発言に責任を持って進めていく、そういった姿勢が必要であろう。

この一年間で得た事は、自らの専攻である建築学を他分野から見つめ直す良い機会でもあった。演劇学、空間学、現象学、雰囲気論、気分論、哲学、政治学、空理空論ではなく実用的な学問に触れる事が出来た。私は、ベルリンで出来うる様々なイベント、美術館、演劇、音楽、建築に触れてきた。これは、日本大学の交換留学を最大限に生かした素晴らしい留学だったと思う。

日本帰国後も、山中湖で開催されたインターウニゼミナールに参加してきた。5日間、東京大学、早稲田大学、慶応大学などで学ぶハイレベルな学生達とドイツ語で議論をした。テーマは、「Die Stimme die Bürger(市民の声)」という難しい議題で、憲法改正、自己矛盾、学生運動、ナショナリズムなど様々な深い部分まで議論が及んだ。私のドイツ語も上達し、楽しいゼミナールになった。このような活動には今後も参加していきたいと思う。
留学は、Methode(方法)であって、 Ziel(目標)ではない。それは、はっきりと今回の留学で意識が出来た。今後とも、建築学の勉強だけでなく、日本とドイツの架け橋となれるような活動をしていきたいと思う。
このような素晴らしい機会を与えてくれた日本大学に感謝致します。
ドイツ語コースの時の仲間達です。

2013年7月3日

留学生活も残す所わずかとなり、自分のベルリンでの一年間を内省する時期にきています。自分がこの一年間で、何を得て、何を得なかったのか、そして、その経験、知識を生かして日本で出来る事は何なのか。今月の月例報告書では、自分がこの1年間で得た新しい考え方について書いてみようと思います。

私は、日本大学芸術学部にて建築学を勉強しておりますが、派遣先のベルリン自由大学では演劇学を専攻しております。もともと、空間、雰囲気、はかさな、一回性(その場でしかできないたった一度きりの体験)、交換不可能な価値、関係性というテーマに興味があったからです。

一年間ベルリンという土地を生かして、様々なアート、建築、演劇、映画、音楽、哲学に触れてきました。哲学で言えばボルノーの気分論、ガストンバシュラールの空間学、メルロ・ポンティの現象学、演劇で言えばアーサー・ミラーのような三統一を守った古典作品から不条理演劇の傑作サミュエル・ベケット、またFCBergmanのようなエポックメーキングな現代演劇にいたるまで。映画でいえば、何と言ってもミシャエル・ハネケ監督の「Liebe」という映画史に残る作品。「老いと愛」という非常に人間らしいテーマであるとともに、人生の最期という人類共通の究極のテーマを扱った作品でもあります。ドイツ語コースでその映画についてのプレゼンを行う事もあり、その映画のコンセプト、哲学、メッセージ、作品の深い所まで触れる事が出来ました。絵画で言えば、ダリやマグリットのシュールレアリズム、ジャコメッティの彫刻、カンディンスキーやモンドリアン、パウルクレーのキュビズム、モジリアーニの人物画、ピカノやファンゴッホ、モネやマネの印象派に至るまで、美術館もたくさん訪れました。他にも、日本の是枝監督の事や、鬼才ピナバウシュのダンス、坂口恭平の「0円ハウス」、ティンゲリーの彫刻の事もこちらへ来てはじめて知りました。それらの知識、経験は、ベルリンに来ないと触れる事の出来なかった人、モノ、事ばかりであり、この一年間での経験が僕に与えた影響は計り知れません。まさに、ヴァルター・ベンヤミンの言うアウラに満ちた一年間であり、これらの経験は間違いなく、僕の血となり肉となり今後の自分の活動に生きてくると思います。そう信じています。このような貴重な機会を与えてくださった日本大学に感謝するとともに、これからも自分の知識、経験、人間性を磨くために日々精進して参りたいと思っております。

その中でも一番おもしろいと思った考えは、「身体性」という考え方です。つまり、現代人は情報技術の発展によりパソコンに囲まれて生活する事を余儀なくされていますが、そのせいで身体性を失って生きてはいないか、という問題提起です。僕たちを取り囲む世界、システム自体が身体性を感じにくい環境になってはいないか。つまり、人間は身体と心がつながって生きていくべきなのに、パソコンに囲まれた毎日を送ると頭の方はフル回転でも、体が腐っていくという事実です。1日中オフィスに座ってパソコンを眺めていても新しいアイディアや考えや生まれてきません。なぜなら、そこで使っているのは頭だけであり、そこに身体性が伴っていないからです。それでは、ただのオペレーターであり、機械と変わりありません。そうではなく、「さぁ、本を捨て街に出よう」という寺山修司の言葉ではないですが、街に出て体を動かす。一日中本を読んで図書館にこもるのではなく、街に出て人と話してみる。その日にしか出来ない、交換不可能なオリジナルな一日を体験してみる。(そういう魅力が都市にはあります。)そして、それらを積み重ねる。そういう刺激を毎日身体に与える事こそ、人間の感性が磨かれていく唯一の方法ではないかと思うのです。これは、「オリジナル」という考え方にも近いかもしれません。画一的な環境で生きることに慣れてきた日本人たちは、オリジナル性を失っています。例えば、冷凍食品などを毎日食べるという事は、毎日同じような味ばかりを食べているという事です。それは、要するに毎日コピー&ペーストの食事ばかりをしているという事であり、それでは味覚も鈍感になってきます。人間は車ではありません。車のように毎日、ガソリンだけを補給すれば良いわけではないのです。

頭で考えれば、何でも良いから食べ物を与えれば良いと思うかもしれませんが、身体はそれを求めているわけではありません。そうではなく、毎日バランス良く、そして様々な食事に触れる、経験する。身体に刺激を与える。この事が重要になってくるのではないでしょうか。また、「食べる」だけでなく「作る」経験も非常に人間らしい行為だと思います。冷蔵庫を開けて、今日残っている品を見て、それらをクリエイティブにあわせてブリコラージュにしていく。これが、人間らしいオリジナルの力だと思うのです。機械には出来ないクリエイティビティだと思うのです。その事を忘れ、毎日コンビニ弁当で満足しているようでは、人間らしさが失われていってしまいます。人間が機械になっていくのです。そうすると人間は過ちを犯します。感情を失ったシステマティックな人間達は、ヒトラーのような過ちを犯します。ジョージ・オーウェルの言う「1984年」の世界観です。よって、人間が人間でいるためには、身体性の確保、すなわちオリジナルな交換不可能な毎日を経験していく事が何よりも重要な事なのです。「生きる」という事なのです。コピー&ペーストの何の変哲もない毎日を生きるのではなくて、変化を楽しむ、今を生きる、そういう姿勢が必要かと思います。そうしないと、いつのまにか、身体性が人間から離れて、人間は機械になってしまうと思います。
ドイツ北部のロストックでの町並み
都市と人間との関係性が非常に綺麗に納まっている。

2013年6月6日

いよいよ留学生活も終盤に入り、様々な出来事に思いを巡らせながら、残された留学期間をどうしたらもっと有意義に過ごせるのか、毎日考えております。ドイツ映画をテーマに扱うドイツ語コースでは、昨年カンヌ映画祭でパルム・ドムール(最高賞)を受賞したミヒャエル・ハイネケ監督の「Liebe」という映画についてのプレゼンテーションをすることになりました。最近はその準備に忙しく、ドイツ語だけでなく、内容的にも良いプレゼンが出来たら良いなと思い、そのためにも、予定をしっかりと組んで準備をして、様々な角度からその映画を見つめ、客観的な意見も取り入れながら仲間と共にデザインしていく必要があると思います。また最近疑問に思う事は、日本の「受験」を目標にした義務教育のやり方についてです。論理的な能力の育成、使える英語教育、日本の歴史認識、他者へと意見を発信する力(伝える力)、など本来グローバルな人材に必要な事が、今の義務教育では教育されていない、とつくづく思います。懐疑的な批判的な考え方は日本ではあまり受け入れられませんし、出る杭は打たれるとも言います。

画一的な雰囲気に飲み込まれた時、それは即ち、自分の頭で考える事を忘れた時であり、それほど危険な状況はありません。先週の金曜日から日曜日にかけて、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所へ行ってきましたが、そこで学んだのは、150 万人ものユダヤ人を始めとする罪なき人間達が、非常に合理的に、システマティックに毎日殺されていったという、「人間の残酷さ」であります。誰もその状況の異常性に気づかなかった。

気づいたとしても、No と言えなかった。こういう状況は、自分で考える頭を失ったロボット人間に起きる悲劇です。私たちは歴史から学ばなければなりません。悲劇を繰り返さないためにも、私たちは学ぶ必要があるのです。それは、生きる義務みたいなモノです。確かに今までは日本らしい教育方法で良かったのかもしれませんが、これからは違います。政治、経済、文化、そして人間がグローバルに交差する現代社会において、今後、日本がひとりで生きていくことはできません。アジア近隣諸国やアメリカ、中国、EU と協力しながら、持続可能な世界を目指していくのに、グローバル人材育成は必須課題なのです。そこで大事になってくるのが、他者との前提条件の共有です。たとえば、「正義」という言葉がありますが、それはあくまで相対的な概念です。様々なバックグランドを持った人たちの中で、絶対的な正義と言う概念は通用しません。そのことをしっかりと理解した上で、自分の意見が絶対正しいという自己陶酔に陥る事なく、より柔軟に、それぞれの立場、意見を尊重しながらグループディスカッションしていく、そういう前提条件の共有が必要だと思うのです。そういうそもそも論を疎かにして、理論や哲学を勉強しても意味がありません。例えて言うなら、歴史の授業で、○○年に何が起きたか、という「事実」と言われているモノを集中的に学ぶのではなくて、歴史という定義自体が、そもそもある一つの証拠に基づいた一つの客観的意見である、という大きな枠組みから勉強すべきなのです。そういう懐疑的な見方なしで、先生が言った事がすべて正しいという、ほとんど独裁に近い状況になってしまうと、それは中立的な歴史ではなく、非常に偏った意見の押しつけになってしまいます。そうではなく、先生、生徒、先輩、後輩、そういうヒエラルキーのない自由な討論を繰り返す事で、他者との立場の違いを認識しながら、自らの意見を、他者を通して客観的に見つめる事を学ぶのです。

そういう教育の仕方は、明らかにヨーロッパの方が進んでいると思います。
写真:ポーランドのアウシュビッツ強制収容所にて。これほど、メッセージ性の強い展示はないと思う。やはり、僕たちは、その悲劇の地へと自らの体で赴き、五感で感じることが必要だと思う。それが、唯一の戦争を止める方法であろう。

2013年5月1日

夏学期が始まりました。冬学期で学んだ演劇学の基礎を生かし、夏学期では、より実践的な授業を履修するようにしています。授業内容は以下の通りです。

・「ジェンダー的な問題をいかにパフォーマンスとして表現するのか」
ゲイやレズビアン、社会的な女性としての立場、など今まで社会的弱者とされてきた人たちを問題視するジェンダー問題。それらのアンチ政治的な表現としてのパフォーマンス。オノヨーコ、マリーナアブラモヴィッチ、アランカプローなどを例にパフォーマンスにしか出来ない事を学び、最終的には自分のプロジェクトを提案して、ベルリンの美術館(Akademie der Kunst)に展示します。

・「演劇ではないパフォーマンスの魅力とは何か」
演劇とパフォーマンスの違いを主に学びます。観客との距離が近いパフォーマンスの魅力、危険、はかなさ、雰囲気。絵画や彫刻との関係も学びます。

・「劇作家サミュエルベケットの不条理演劇」
不条理演劇の神様と言われるサミュエルベケットを中心に学びます。ベケットの不条理演劇とは何なのか。二つの世界大戦の時代に生きたコンテクスト、少年ベケットへの影響。Berliner ensemble やDeutsches Theater などへも訪れ、「ゴドーを待ちながら」や「勝負の終わり」など理論だけでなく、実践的に学んでいきます。自分の中では、ペケット空間と言われる「なにもない空間」(ピーターブルック書)に通じるような演劇が生成する空間を研究していきたいと思います。

・哲学的考察:「空間」という概念(ベルリン芸術大学での聴講生)
フーコー「監獄の歴史」、ガストンバシュラール「空間の私学」、イーツーファン「空間の経験」、ハンナアーレント「人間の条件」などを読み込み、改めて、空間、環境、社会的システムが抱える問題点について理解を深めていきます。最終的には、演劇と空間、建築と空間、パフォーマンスと空間、という自分が興味あるテーマに昇華していきたいです。

・ドイツ語コース「ベルリンと映画」
ベルリンと映画というテーマでドイツ語を学んでいきます。昨年度オスカーを獲得したミヒャエルハイネヶ監督の「Liebe」という映画についてのプレゼンテーションを目標に、Passiv やKonjuktiv など文法を中心に学んで行きます。
また、5月の終わりには、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所へも行こうと思っております。

・次年度派遣候補生へのアドバイス
自分のやりたい事をしっかりと明確に計画すること。そうすれば、派遣先のベルリン自由大学だけでなく、ベルリン芸術大学やフンボルト大学、ベルリン工科大学へも聴講生として授業を受ける事が出来る。

日本にいる間も、自分の専門用語(Fachwörter)をしっかりと頭に入れておく。そうすれば、少し話すのが早い教授の話も、全体は理解できなくても、部分部分で理解する事が可能。
Stadtbibliothek(市立図書館)に登録する事で、本やDVD を借りる事が可能。しかし、Staatsbibliothek(国立図書館)とは別物なので注意する事。

WG(シェアルーム)に問題があるときは、シェアルーム会議を開き、みんなでデモクラシーで議論する事。この時に、自分の意見、立ち位置をしっかりと主張する事。家、つまり帰る所で問題があると、勉学にも支障を来す可能性あり。

私は、いまのところ経験はしていないが、他の日本人留学生が道を歩いている途中に、ドイツ人に唾をかけられるという事件が発生。外国にいるというのは、自分たちが彼らから見て外国人だという事。今では、アジア人に対する偏見は少なくはなっているが、外国人というのは、国民のフラストレーションの矛先になりやすい存在なので、十分に注意する事。
週末を利用して、Bauhaus の本拠地であるDessau 市へ行ってきました。

2013年4月6日

2月21日から4月4日にかけて、ヨーロッパの建築を巡る旅をしておりました。私の専門である建築学というものは、教科書やネットなどで得る間接的な情報では、全てを把握するのは不可能なため、自分の目と体を使って、直接的な経験をしたいと思い、この旅を計画いたしました。

近代建築の父と言われているル・コルビュジェの作品を始め、バウハウス三台目校長のミース・ファン・デル・ローエの作品、アールヌーボーのガウディやオルタ、最近注目されていて、この間高松殿下記念世界文化賞を受賞したスイスの建築家ピーターズントーの作品。ポルトガルの巨匠アルバロ・シザに、アメリカの脱構築主義フランク・O・ゲーリーやオランダのレム・コールハウスの作品。パリのポンピドゥーセンターで世界的に注目されたイタリア人建築家レンゾ・ピアノの作品。さらには、日本人建築家、安藤忠雄やSANAA(妹島和代+西沢立衛)の作品に至るまで。また、現代建築だけでなく、古都ポルトやカタルーニャ・バルセロナの町並み。スイスのベルンやバーゼルに至るまで。日本の都市にはない魅力的なヨーロッパの町を眺め、感じ、歩いてくる事ができました。旅中は、何度もメモを取ったり、写真、スケッチをしたりと、とても有意義な時間を過ごす事ができました。

建築というのは、建物という「ハコ」の事をさすわけではなく、その周りにある環境、社会システム、人々、コミュニティまでを総括した総合プロデゥースとしての作品なのです。たとえば、エッフェル塔をとって、そのまま日本に持ってきても、あのパリの雰囲気を感じる事はできません。エッフェル塔が作られる(または、作られた)そのコンテクスト(文脈)の理解が非常に大事なのです。つまり、時代や場所、風土や気候が作り出すその「場所の空気」、これを体験しないで建築を語る事はできません。ガウディは彼が天才だったわけではなく、カタルーニャというスペインの中でも特殊な風土が彼を生み出したのです。今、一番注目されているスペイン建築家のサンディアゴ・カラトラバもカタルーニャ地方の出身です。つまり、ガウディの建築を理解するには、その建物を見るだけでなく、カタルーニャ人と一緒に食べ、飲み、寝る。その人たちと同じものを食べ、同じ空気を吸い、できれば同じ言葉を話すように努める。これが、私の考える「旅」の定義です。つまり、これは、旅行ではありません。観察者としてある一定の距離をとるのではなく、自分から現地人の懐に飛び込んで行く、この行動力が非常に重要だと思うのです。

最近注目される建築は、ファッションのように、あまりに脆く、変化しやすく、その時代の人々の興味によって多いに影響されるものではあるのですが、そのなかでも普遍的な本当に良い建築というのも存在します、つまり、どの時代の人間も共感する最高の建築というものです。たとえば、ヨーロッパに数多く存在するカトリックのゴシック教会です。天へとのびるその塔からは優しい光が降り注ぎます。何十年、いや何百年もかけて、作られた幾多の彫刻たちは、作り手たちの愛によって、とても複雑で美しい作品になります。現代のように高度資本主義社会の競争原理や大量消費にはない、「宗教」のあった時代の建築たちです。その教会という空間に賛美歌が流れるのを聞いていると、これはこの時代のものではないのではないか?自分は、今、本当に地球上にいるのだろうか、という気すらしてきます。つまり、私が否定したいのは、現代人のエゴということです。自分たちは頭が良いと思っていて、機械やインターネットを使えて何不自由ない生活を送っていると思っている。しかし、本当に現代人は昔の人々より豊かなのだろうか。利便性や合理性を優先して、宗教や隣人愛、思いやりや共同体、というものを忘れてきたのではなかろうか、と。京都という町は日本が世界に誇るべきすばらしい古都です。しかし、何年か前に建てられた建築家原広司による京都駅を始め、京都という町の雰囲気をどんどん壊していく建物がたくさんあります。また、京都北山の円通寺という寺庭には、「借景」という手法が使われていて、何キロも先ある比叡山の景色を、文字通り、借りてきて、自分の庭の風景の一部として取り込んでいるのです。その風景は見事なもので、清閑で、非常に趣のあるお庭です。しかし、非常に残念なのが、最近、その比叡山の中腹にマンションの建設計画があがったというのです。たしかに、彼らにしてみれば、文化や美学、美徳よりもマンションを建てて、部屋を少しでも売って、金儲けをする、という事の方が大事かもしれません。でも、だからといって、このフラジャイルな「文化」をそれだけの理由で壊してしまってよいのでしょうか。問題は、後戻りはできないという事です。これは今の世界が抱えている「グローバリゼーション」と「文化相対主義」という大きな対立関係に似ています。どちらも正義であって、どちらも間違いである。両方にウルトラマンがいるようなイメージです。だから、解決が難しい、というか解決はできない。だからといって、テーゼ、アンチテーゼの言い合いでは、水掛け論というか、批評ばかりになってしまう。そこで、やはり重要になってくるのが、ヘーゲルの提唱した弁証法の「アウフヘーベン」という概念です。

アウフヘーベンというのは、もともと持ち上げるという意味ですが、つまり、二つの対立する概念があり、その対立関係を否定し、両者の内容を保ちながらも、それらを新しい秩序に取り組んで、より高い次元で統一する、という事です。もちろん、それが難しいのは知っていますが、だからといって、自分の言いたいことだけを言っていては何も始まりません。そうではなくて、良い意味で妥協して、折り合いを付けて、前に進んで行く。あきらめないで、妥協案を探していく。この事が、今の世界についても、建築業界と資本主義の関係についても言える事ではないか、と思うのです。
フランス、リオン市郊外のル・コルビュジェ設計のラトゥーレッと修道院に宿泊してきました。とても小さな僧房でしたが、しっかりとモジュールによる計算がなされ、気持ちのよい空間となっていました。将来、こんな建築が設計できたらと思います。

2013年2月21日

Wintersemester(冬学期)が無事に終わり、演劇学の講義とゼミナールのHausarbeit(課題)を提出しました。もちろん、交換留学生ということで、少し多めには見てもらいましたが、自分の今できる精一杯のドイツ語で、ドイツ人の友達に相談しながら、レポートを3 部提出しました。自分の見て感動した演劇についてのレポートだったので、とてもおもしろかったです。
演劇というのは、非常に人間らしい行為だと思います。つまり、俳優と観客という、見る見られる関係が成り立つものをそう呼ぶわけですが、これは、いわゆるFace to Faceという直接的なコミュニケーションだと思うのです。俳優さんの声の調子やトーン、その日の気分によって左右される演劇の魅力は、なんといってもその「一回性」つまり、その場でしか、その時間でしか体験できない、たった一度限りの経験だと思います。映画やテレビは、コピー&ペーストで何回も全く同じものを見る事ができますが、演劇は、劇場という一種の閉鎖的な空間で、皆が肩を寄せ合い、同じ時間と空間を共有するというものですので、ベンヤミンの言うアウラの含んだ経験だと思うのです。それは、建築や住宅にも共通する事で、今後とも、自分の興味ある「崩壊した中規模コミュニティの再生」というテーマで考えていきたいと思います。
先週、テストが終わった後、ベルリン国際映画祭に行ってきたのですが、世界中から来た若いアーティストたちが、社会的な問題をテーマにした作品を上映していました。また、日本からの作品も多く、久しぶりに日本の雰囲気というものを感じられました。山田洋次監督の「東京家族」という作品を見ましたが、それは小津安二郎の「東京物語」のオマージュで、言ってみれば、「現代版東京物語」だったので、自分の家族と照らし合わせて考える事ができました。みな祖父母という存在は大事にしたい、孝行したいとは思うのですが、現代チルドレンたちは、塾に習い事に宿題にテレビ番組とやる事がいっぱいあります。彼らは、もちろん時間があったら、ゆっくりおじいさんやおばあさんと話をしたいし、戦争の事や昔の事、「亀の甲より年の功」というように、学校の先生からは学べないたくさんの経験に基づいた生きた知恵を学びたいと心の底では思っています。しかし、彼らは、それはテストにでないから、とか、そんなつまらないリアリティのない戦争の話より、音楽番組やお笑い番組などを見て笑っていたい、と考えているのでないでしょうか。儒教的な考えというよりは、合理的に割り切って、自分の時間を割いている。それは、本当に悲しい事ですし、目の前の物事、効率、利便性、だけを優先する高度資本主義消費世界の罠だと思います。家族というシステムが崩壊しつつある現代において、もう一度、「家族」という環境は何なのか?考えるべき時期だと思います。このままでは、核家族ではなくて、核個人になってしまいます。この状態は、なんとしても回避しないといけません。

「東京家族」の中で、おじいさんが飲み屋で言っていたコメントが脳裏をよぎります。
「この国は、どっかで道を誤ってしまったんじゃ。このままじゃ、いけん。このままじゃ、いけん。」残りの半年も、ベルリンでしっかり勉強して、自分が、日本のために、世界のために、できる事は何なのか、考えたいと思います。
ベルリン自由大学の国際交流室の企画した遠足に参加してきました。Leipzigへ行き、バッハやメンデルゾーンが暮らした由緒ある街でした。

2013年2月1日

明けまして、おめでとうございます。おかげさまで、無事に、身も心も一番良い形で、新年を迎えることができました。このような素晴らしい機会を与えてくださった日本大学には本当に感謝しております。この感謝の気持ちを忘れることなく、今後とも自分の活動に生かして行けたらなと思います。いよいよ、演劇学のHausarbeit(レポート)提出の時期となりました。ドイツ語で書くので、少し早めに進めて、後でドイツ人の友達にチェックしてもらおうと思います。話す言葉と書く言葉では、日本語も同じように、ドイツ語も違いが多いので、しっかりと計画してやって行きたいと思います。レポートの内容も、自分が半年間に見てきた演劇の中から一番影響を受けた演劇について書こうと思っております。また、先週の月曜日に、ベルリン芸術大学にて、フランスの都市計画家ドミニク・ペロー氏の講演会がありました。

「UDKMonday」と言って、毎週月曜日に著名な建築家・デザイナーに来ていただいて、講演をやるというものです。無料というのもあって、毎回、学生は満員で、僕のようなベルリン自由大学から来る、いわゆる潜りもいるため、大変な熱気です。このような仕組みは本当に毎回感心致します。つまり、教授と言う理論ベースの机上の空論に比べ、世界の最前線にいる建築家の言葉はとても説得力に満ちているのです。実践ありき、経験に基づいた思考、哲学は、難解と思いきや、まるで詩人のように、とてもソフトに建築を語ります。それが、また魅力的で、ぼくもこのような話し方ができるようになりたいと思いました。お金の使い方がちゃんとしていると思いました。大学の運営費を、本当に学生のために使っていると思います。

僕も、日本大学芸術学部にもっとたくさんの外との交流があれば、もっとたくさんのひらめき、良いデザインが生まれると思います。日産のCEOになったカルロス・ゴーン氏は、「ひらめきとは交流と組み合わせによって変わる。」と言っています。つまり、毎回同じ刺激、毎回ニーズに答えるだけのデザインでは面白いものは生まれないのです。

様々な交流と組み合わせによって、まったく新しいモノが生まれるのです。その証拠に、スティーブ・ジョブス氏は、コンピューターとアニメーションという組み合わせと交流によって、ipod, iphone, ipad という今までに類を見ない画期的なデザインを生みだしました。これが、比較的欧米の大学には多い気がします。また、最近は自主的に自分の卒業制作・論文のテーマについて思考を巡らせております。日本から持ってきたハンナ・アーレントの「人間の条件」を読み、日本の崩壊した中規模コミュニティの再生について何か方法はないか、考えています。人間に絶対に必要なコミュニティ、アイデンティティ、帰属意識というものが、今の日本には見出しにくいような気がします。「向こう三軒両隣」なんて言葉も、今では何のリアリティもなくなってしまいました。地域の子供会やお祭りも、どちらかというと地域の人同士の交流が目的と言うよりは、形式的なものになっています。他人との交流は、義務ではなく、本来楽しいものなのに、それが感じ取りにくい状況があります。もう一度、他人と交流する事の楽しさ、つながりの可視化みたいなものを考えていけたらなと思います。

また、大学の休暇を使って、2月21日から4月4日まで、約6週間かけて、ヨーロッパを縦断しようと思います。ポルトガルのリスボンから、オランダのアムステルダムまで、自分の専攻の建築を巡る旅を予定しております。現代建築から、古い街並みまで、その現地に赴き、その土地の物を食べ、その土地の空気を吸い、その土地の人々と交流したいと考えています。
アーティスト坂口恭平の「0円ハウス」。廃材で作られた小さなコミュニティです。ピアニストの方が1ヶ月住んで、毎日ピアノを弾いています。様々な年齢層の人たちが、くつろぐ経済活動とは何の関係もない、新しい公共のカタチです。

2013年1月1日

今月は様々な事が起きた1カ月でした。その中でも、一番印象に残っているのは、日本と韓国で行われた選挙です。日本では、国会議員の選挙。韓国では大統領選がありました。傾向としては、どちらも右に流れつつあります。ドイツという第三国から政治を見極められる良い機会ということで、こちらにいる様々な国の人たちと少し話してみました。まず、初めに、前民主党政権による原発事故後の対応、このイメージはドイツでは最悪です。福島県民は今すぐに県外退避をすべきだと、こちらのメディアは言っています。もちろん、何が真実かは分かりません。チェルノブイリより危ないという人もいれば、大丈夫だという人もいます。しかし、放射線というのは目に見えません。これが、キーポイントだと思います。つまり、目に見えない、もし浴びた後で、どのようになるのかわからない。いわゆる、実験体みたいなものです。どうなるかわからないけれども、まぁ、大丈夫でしょう、なんくるないさ~みたいな感じです。これは、まずいと思います。政治が機能していない証拠です。国民のための政治というよりも、高度資本主義社会を継続運営するためのものになっています。一部の人の金儲けのための社会になっています。もちろん、ドイツだって完璧とは言えません。EU(ヨーロッパ連合)での問題は山積みです。しかし、一番の違いは、これは文化や国民性かもしれないのですが、議論ができるか、できないか、の違いです。これほど、情報が多く、人も多い社会の中で、自分の思っている事をはっきりと主張して、様々な分野の人と議論をしていく。いわゆる、議論のできる「出る杭」をもっと日本にも増やすべきだと思います。出る杭は打たれる、これでは、皆、同じような意見しか言わない人間ばかりになってしまいます。

長いものに巻かれろ、というのは、非常に独裁に近い状態なのです。ぼくのシェアハウスには、テレビがありません。これらの情報は、ベルリン自由大学の政治学の学生たちと議論を重ねて気づいたことです。僕の専攻は、演劇や建築ですので、政治の事は詳しくありません。しかし、日本の将来を真剣に心配する気持ちは、人一倍あります。僕たちは、まず、今の世界、社会の「システムという枠」を勉強すべきです。今の世界がどのようになっていて、どのような罠があって、どのような限界があるのか。これができているのは、こちらの学生です。もちろん、すべてとは言いませんが。僕は学部3年ですが、今の日本にいる学部3年生たちは、いかに就職できるか、傾向と対策、いかに自分をアピールするのか、などにしか興味がない本当に就職ロボットになっています。だれも、ジョージオーウェルの言った「1984年」みたいな世界を考え、危機感をもって生きている人は少ないと思います。自分で考える事を忘れた人間たちは、懐疑的に、批判的に物事を見るのを忘れて、人間らしく生きることさえも忘れてしまいます。ぼくは、この人間らしく生きるというのは、喜怒哀楽があって、自分の事は基本的に自分でやって、自分の目で物事を見極め、見定める、これが自主自立の出来た人間だと思います。

これが、教育の最終的な目標だと思います。大学受験や就職が目標ではないと思います。
自分を大切に、たったひとりの自分なのだから、もうちょっと、いろいろな選択肢を見つけ、自分の体験をもとに生きていく、これが大事だと思います。

そういう意味では、僕の今勉強している「演劇学」はとても良い学問です。演劇というのは作家の一つのメッセージがあって、それを「演技」という方法で媒介して観客に伝えるわけです。この間、Deutsches Theatherにて、アーサー・ミラーの「All My Sons」を見てきました。テーマも家族と社会。資本主義と戦争。裏切りと責任、と考えさせられることが多く、とても濃密な時間を過ごせました。少し、あらすじを説明しますと、飛行機部品工場の社長であるジョーは、家族のために、欠陥部品であることを承知で、しかし、軍からの催促と時間に間に合わない事を理由に、アメリカ軍にその部品を郵送してしまいます。しかし、それがもとで21人のパイロットが墜落事故で死んでしまうのです。しかし、ジョーは、その責任を部下に押し付け、ジョーは、何度も、「家族のためにやった。」と言っています。

つまり、家族のために、結果的に21名の若いパイロットの命を奪った。これは、許されるのか?ということなのです。それをもとに、真実を知ったジョーの二男が自殺をします。最終的には、ジョーも自殺をします。これは、まさに、今の社会を映し出していると思います。アメリカの軍需産業などは、戦争がないと金儲けができません。結局、世界の至る所で、アメリカの関わっている紛争、戦争が絶えません。軍需産業の社長さんは、「自分の家族のために、中東の人たちをたくさん殺した。」というのでしょうか。
もし、そうなら、それは許されることなのでしょうか。そもそも、この高度資本主義社会と消費社会、民主主義の限界にきていると感じる今日この頃です。

次年度派遣候補生へのアドバイス
・自分の今までの情報入手手段を一度疑った方が良いと思います、インターネットや本、テレビや、人からの情報、様々な情報のなかでも、自分の目で触れ、自分の体験をもとにした情報が一番力を持っていると思います。リアリティのない情報では、言っている自分も不安ですし、他人への説得力もありません。とにかく、百聞は一見に如かず、です。自分の足で立って、自分の今、目の前にあることを信じる、事が大事だと思います。

・昨日、韓国の友達と、歴史認識の違いや、竹島の問題について、議論をしました。ここで注意しなければならないのは、だれも中立的な立場の人間はいないということです。
だれしも先入観はあって、自分の民族は間違っていないと考えています。しかし、宮崎駿の「もののけ姫」でもあるように、「曇りなき眼で物事を見極め、見定める」、この事が今の時代には必要だと思います。あくまで、目標は平和的建設的解決方法です。感情や憎しみを表に出しては、何も解決はできません。
韓国の留学生達と様々な事について議論しました。

2012年12月3日

演劇学のゼミナールにて、レポートの課題が出されたので、実際の演劇を見に行って、そのあと自分の記憶を頼りに、思い出しながらドイツ語でレポートを書いています。
これを一学期で3回、ゼメスターの終わりにまとめのレポートを一回、計4回提出すれば単位はもらえるそうです。

しかし、最近疑問に思うのは、学問はなぜ理論中心なのかということについてです。
つまり、「演劇学」というのは、「演劇」とは違うのです。たとえば、この間、一つの演劇を見てきました。素直な感想として、全然その演劇の主旨が理解できませんでした。
演劇の終わった後、アーティストトークとして、その俳優さんがお話をしていました。
しかし、それは、ものすごくおもしろいのです。その俳優さんはいろいろな事を考えているのですが、それが実際の演劇には表現されていないのです。つまり、彼は、演劇学者であって、エンターテイナーではなかったのです。しかし、観客はそんな事知りません。その演劇を見て、おもしろいか、おもしろくないのか判断します。アーティストというのは、自分の作ったもので勝負しないといけないのです。

「学問」というのは本来、実践を生かすための理論であるはずなのに、今の世界では理論が一人歩きしているように思います。これは、他の学問でも言えることではないでしょうか。建築と建築学。音楽と音楽学。映画と映画学。
もちろん、理論なしで実践ができるとは思っていません。しかし、理論だけでは、人は感動しません。人の琴線にふれるような「+α」が必要なのです。私は将来、建築学者ではなく、人に感動を届けられるような「建築家」になりたいです。

次年度交換留学生へのアドバイス
・ ドイツという国に3カ月もいると、性格もドイツ人のようになり,論理力や理論を好むようになります。つまり、自分の日本っぽいところが少しずつ消えていきます。ですので、自分の在所、所在(アイデンティティ)の喪失みたいなことが起こります。しかし、それは普通の事です。むしろ、その「悩み」こそが、留学の醍醐味みたいなものです。悩みなしの留学はありえません。心理学者のレヴィンは、マージナルマン(境界人)という概念を使い、そのような状況におかれた人間を、二つ以上の異質な社会や集団に同時に属し、両方の影響を受けながらも、そのどちらにも完全には帰属していない人間、と定義しました。不安定で動揺しやすい一方で、一定の社会への単純な融合ができないことから、相対的に啓蒙された存在でありえ、創造性を内包する可能性を持つ、と。
ドイツ人の友達とお気に入りのバーへ。Neuköln と呼ばれるベルリンの中でも移民が多い地域です。ビールはポツダムで作られた地ビール。甘い味がします。

2012年11月3日

ゼメスターも始まり、2つの演劇学の授業をベルリン自由大学にて、建築の授業を聴講生としてベルリン芸術大学、ベルリン工科大学にて受けています。それと、ドイツ語の授業とスポーツ、タンデムプログラム、つまり日本語を勉強しているドイツ人の女の子と一緒に週に一回、お互いの言葉を教え合っています。なかなか、読み物も多く、理解するのも大変ですが、それだけに時間をとられるのではなく、ベルリンという素晴らしい場所にいるチャンスを生かして、本物のオペラを見に行ったり、演劇を見たり、様々な経験を通して、見聞を広めております。

また、そうした中で身につけるドイツ語の方が、机の上で勉強した時よりも、しっかりと頭に焼きついております。つまり、言葉の勉強も、一人で家で机に向かうのではなく、現地の人たちと生活を共にしながら身につけていく学習方法のほうが、絶対に良いと思います。

昨日、演劇学の先生が、「君たちは大学という場所に何を求める。」という質問を宿題にしました。「大学」という場所は、自分の今までの固い頭を、より柔軟に、より広い視野にする場所だと思います。そのための、ディスカッション、意見交換だと思います。しかし、意見交換というのは、最終的には、Aufheben(止揚)して、お互いの意見の対立関係より、さらに上の次元でそれらを統合する必要があると思います。つまり、自分の言いたい事だけ言っているようでは、議論は前に進まないので、やはり最後は、お互いに良い意味での妥協をして、折り合いをつけていく。それが、人と人の関係で成り立っている社会で生きていくことなんだと、最近考えます。
ベルリン近郊のポツダムまで留学生達と遠足。写真はオランダ地区と呼ばれるポツダムでも一番美しいと言われている。電柱がないので、空がすっきりと広がります。

2012年10月4日

ドイツ語コースもいよいよ終盤に入り、冬ゼメスターの準備で忙しい毎日を送っています。現在,大学の講義科目の履修登録期間中のため、膨大な数の講義から自分の受けたい授業を選ばなければなりません。ドイツ語のレベルは、上達しているのかわかりませんが、日常生活ではほとんどドイツ語を使って、過ごしています。こちらの生活にも慣れ、シェアハウスにもイギリス、フランス、ドイツからの新メンバーが加わり、にぎやかになってきました。ただ、朝のトイレなどは順番待ちです。

午前中はドイツ語コース、午後は、ドイツ語コースの様々な行事に参加しています。
美術館や歴史ある地区の街歩き、パーティーや演劇ワークショップなど、ほとんど毎日参加しています。ベルリンは、今ヨーロッパの中でも最も熱い街といわれています。しかし、その背後には、暗くて重くて悲しい歴史があることを忘れてはいけません。

実際に現地への訪問を通じてナチスや旧東ドイツの非人道的な行為を学ぶ中で、それはドイツ人の恐ろしさではなく、人間の恐ろしさであると実感しました。強制収容所の見学をしたときは、吐き気がしました。建築を勉強している者として、このような建物は絶対に建ててはならないと思うと同時に、建物よりも、そこで行われてきた残虐な行為(ソフト)について考えなければならない、と感じました。それは、決して過去の遺物ではなく、現在も進行中の問題としてとらえなければならないと思います。戦争は終わったわけではなく、今でも中東や世界の至る所で行われています。尖閣や竹島などの問題も軽視できません。重い歴史を学ぶ中で、少し感情的な私にとって、辛い時期ではありましたが、様々な国の留学生たちと意見を重ねる中で、自分にできることは何なのか、考えることができました。
ベルリンの壁の前で留学生達と。ドイツ語コースの一環でベルリンの壁を見に行きました。壁は一枚ではなく、二重構造になっていて、たとえ運良く一枚目を乗り越えたとしても、二枚目を飛び越えるのは不可能と言われました。

2012年9月5日

ベルリンに到着してから、10日目が過ぎようとしています。最初の6日間は、ベルリンの中心部のドイツ人の友達の家にお世話になり、学生寮の入居日である9月1日に引っ越しをしました。昨日から、ドイツ語コースが始まり、クラス分けテストで、中級レベルのB1クラスに何とかぎりぎり入ることができました。

Wohngemeinschaft(=シェアハウス)での生活も慣れてきました。5人住んでいて、各個室と共同のキッチン、トイレ、シャワー、リビングルームがあります。しかし、共同キッチンは、皆、自分で使った皿やコップ、フライパンを洗っていないので、ポーランド人のマルタさんと今後のキッチンの使い方について議論しました。ここでは、議論しないと、やっていけません。ドイツの秋が訪れようとしています。
学生寮の近くの湖Wannseeの写真です。